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常識の海で哲学をひろいたい

この前、ツイッターを見ていると、気になる引用ツイートがあった。

空港では絶対に人の荷物を運ばないで

ある方のつぶやき

というものだった。

元のツイート内容を見ると以下のような概要。

モンゴル研究をしている文化人類学者の方が、海外の空港で荷物の重量超過があり、日本人に声をかけても無理と言われ困っていると、居合わせたモンゴル人の劇団の方々が、本を自分の荷物として持って(運んで)くれた。

元となるツイッターの概要

今見ると、消されてしまったようなのだけど…。

このツイートを見ると、
「空港で人の荷物を運ぶなんて危険」「頼まれても断るのが普通」「犯罪に巻き込まれるのでやめしょう」

「いい話だった」「とても感動した」
という感想(つぶやき)があった。

同じ文章でも、人によって「見え方」が違うんだなと思った。

常識としての話なのか
哲学としての話なのか

常識と哲学

空港で全く知らない人の荷物を運ぶのは、基本禁止されていて犯罪に巻き込まれる危険がある、という事は当人も相手も知っている。
それでも、相手はそれを判った上でしてくれた。

というのは、常識の話の範疇ではなく、哲学の話なのかも?と私は思う。

そして、ブラック・ジャックの以下のような話を思い出した。

    以前B.J.は海外で誤認逮捕され、商社マン・蟻谷の証言で助けられた事があった。蟻谷が会社に裏切られて重傷になった時、B.J.は全力で助けに向かう。
ブラック・ジャック全話 - Wikipedia

ブラック・ジャック全話 - Wikipedia
201 話「助けあい」

この話の冒頭で商社マンの人は、いかにも怪しげな主人公ブラック・ジャックを、ただの善意で助けている。

話は漫画のように大げさでないにしても。
そういう事なのだろう、と私は思った。

私だって常識的な判断で日常を暮らしている。

でも、常識とは別に、人にはそれぞれ、その人の哲学というものがあると思う。

常識では「間違った事」であっても、その人の哲学という面で見れば「正しい判断」の事もある。

私が感じたのは、この話は「常識」ではなく「哲学」に沿った行いの話ではないだろうかと。

だから、
「いい話だった」「とても感動した」
という感想の人がいる。

とはいえ、「常識」で判断した場合、この行為は間違いなわけで、
「空港で人の荷物を運ぶなんて危険」「頼まれても断るのが普通」「犯罪に巻き込まれるのでやめしょう」
という感想にもなる。

ツイッターでも、そんな色々な感想があったりで、元のつぶやきはお詫びの文と共に削除されてしまったらしい。

「常識」を超えた「哲学」で心が動かされる

ツイッターを含むSNSでは、「常識」から離れた事を書く事はできない場になりつつあるように思う。
この話のように、常識外の事は受け入れてくれない場。

私は時々「それってどうなんだろう?」と思う事がある。

確かに
『常識的に判断しました。』
という内容を見た時、参考になるし、いいねを押したりはするのだけど…。

それだけでは、何ともつまらない物を見ている気分にもなる。



人は常識を超えた行為に、心が動かされる事があると思う。

常識は必要な事だと思う。
でも、それに従ってばかりで、本当に自分がしたいと思ったその時、常識を超えた事を何もできなくなってしまう。
それは、人生であまりにも悲しい事ではないか。

そして、それを書く場も、読む場もなくなってしまうなんて。

私は、エッセイが好き、ツイッターを見るのも好き。
くだらない事も好きだし、些細なつぶやきに心動かされる事もある。

常識の海で哲学を拾いたい

私は、常識という海の底に眠る、小さな哲学を拾っていきたい。
溺れて、見つけられなくなる前に。

それが石ころであっても。
それが自分にとって、本当に大切なものであるなら。
私はそう思っている。

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