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本物のカルチャーとはわからないもの

経済学者の成田悠輔さんがラジオでこんなことを言っていた。
「本物のカルチャーとはわかりあえないもの」「口から吐き出すような耐え難いもの」「拒絶されないようなものはカルチャーとは呼べないのではないか」

最近、アメリカの黒人街の店で食べたブラックコミュニティのソウルフード的な料理を2,3口食べただけで耐えきれられず、吐き出しそうになった体験から、このように思ったらしい。

ひどく感心した。まさに目から鱗のような話だった。
私が4月から住んでいる沖縄でも沢山のカルチャーを感じることが多いからだ。

例えば、沖縄の伝統的な競技の一つである闘牛。
沖縄に来て、すぐにこの闘牛を見る機会があった。
仕事で先輩に連れられて見に行った。
会場は満員で座れずに立ち見している人も多かった。

観客は地元の人がほとんどで、外国人観光客もいた。
会場は闘牛が互いにぶつかると歓声が上がったり、大盛り上がりだった。
でも、自分には何の感動もなく、ただのショービジネス、動物虐待にしか見えなかった。人間が闘牛をむちで叩いて興奮させて、無理やり戦わせる。自分には到底受け入れられるカルチャーではなかった。

何とも耐え難い空間だった

他にも、沖縄の人は車がどれだけ錆びようが、事故で車体がへこもうが、修理もしないし、塗装もしない。聞いたところ、沖縄は台風や海風のせいでコーティングをしてもすぐに車が錆びてしまうから、全く気にしないらしい。車のへこみも、個々の交通意識が低く、事故率が高い沖縄では、修理しても、また事故して、へこむから、気にしないのだと思う。

内地ではまず考えられない。錆びている車も、車体がへこんでいる車も、滅多に見ない。錆びる前に買い替えるし、事故を起こせばすぐに修理する。逆に車体がへこんでいる車を見ると、「こいつ事故だったんだな」と思われ、なぜ放置しているんだ、とやばいやつ扱いされる。でも、沖縄ではこれらが多数派で、何も思われることはない。自分は錆びていて、へこんでいる車なんかださいなと思うし、この感覚は自分には一生わかりあえないもの、これもまたカルチャーなのだろうな。

逆にこれ良いな、と思うカルチャーもある。
例えば、沖縄は車を持たない高齢者が多いから、無料の送迎バスを運行している病院やスーパーが多い。このカルチャーは公共交通機関が不十分な過疎地や離島で良く見られるカルチャーだと思うけど、自分もリハビリで週3回くらい整形外科に通っているので、ありがたく利用している。病院までの移動手段がない自分には嬉しい。内地には滅多に見られないカルチャーだけど、これはすんなりと受け入れられた。

あともう一つ。沖縄の人々は年齢問わず距離が近いこと。例えば病院で若い看護師さんがおじいおばあに対して、敬語を使わず、砕けた言葉で会話すること。最初、見たときは衝撃を受けたけど、今はもう慣れてしまって、当たり前の光景になった。このカルチャーは沖縄らしくて良いなと思う。内地では絶対に見られない光景だし、もし高齢者にため口で話したら、お年寄りを敬え、などと説教されるだろう。

他にも私の地元、熊本県では水道水を何のためらいもなく飲み水として使うことも他県民からしたら到底受け入れられないカルチャーだと思うし、大阪のすぐにあめをくれるおばちゃんもまたカルチャーだろう。しかし、このような大衆には受け入れられないもの=カルチャーだと定義すると、日本を代表する観光地で、外国人にもすんなりと受け入れられている、”京都”や”秋葉原”などはカルチャーとは呼べないのか?という疑問が湧く。

観光客に気に入ってもらい、沢山来てもらうために、カルチャー自体を大衆に寄せてしまった結果なのか、はたまたこれこそが本来のカルチャーなのかはわからない。でも、成田さんがラジオでおっしゃっていたように、”分かり合おう”とか”認めよう”とかそういうものはカルチャーとは呼べないのかなと思う。なぜなら本当のカルチャーとは決してわかりあえないものだから。絶対に歩み寄ってはいけない。大衆に迎合してしまったら、それはもうカルチャーとは言えず、ただの大衆になる。決してわかりあえないものだから、わかってもらう必要はないし、わからなくていい。

沖縄で暮らし始めてから、到底理解できない、耐え難いカルチャーに沢山触れてきた。その度に受け入れなればいけない、と頭ではわかっていても、その多くは理解に苦しみ拒絶してしまっていた。だけど、成田さんがこう説いてくれたから、私はカルチャーとは絶対に分かり合えないものだと割り切ることにした。気がだいぶ楽になった気がする。同じ日本人でも分かり合えない壁ってあるんだな。これからも国内外問わず、思わず吐き出してしまいそうなものやドラマチックなカルチャーに沢山触れ続けていきたい。


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