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言葉について

綿矢りさの小説「かわいそうだね?」を読んだ。
訳ありの男女の三角関係を描いた恋愛小説だったのだが、読みながら、ある言葉について深く考えさせれた。

それは本のタイトルでもある「かわいそう」という言葉について。
主人公のジュリエは、恋人の隆大から家賃を払えずに家を追い出された元カノ、アキヨを就職が決まるまで、居候させる、それが許せないなら別れると、唐突に言い渡された。

許せなくても別れるのは嫌だから、納得できないまま渋々受け入れてしまうジュリエだが、仕事中や帰り道、一人で家にいる時など四六時中、2人の間に何か起きていないかと不安がおさまらない。そこで、主人公はアキヨが就職試験にずっと落ち続けていることや元恋人の家で気まずく肩身の狭い生活を強いられていることなど、彼女の置かれている過酷な状況を「かわいそう」だと思うことにした。

自分もかなり過酷な状況にあるけど、自分には幸い住むところも、仕事もある。反面、アキヨは家賃が払えず家を追い出され、東京でずっと仕事が見つからずに路頭に迷っている。私も辛いけど、アキヨの方が何倍も大変なんだ、かわいそうなんだ、と思うことにして。

すると、今までのアキヨへの嫉妬心や不安がスッと消え、彼女に慈愛の気持ちすらも湧いてきて、主人公はこの状況を受け入れて、彼女を助けてあげようと決心した。

主人公を見ていると、どうしようもない最悪な状況に直面した時に、いかにダメージを受けずに乗り越えるか、という力を身につけなければなと感じた。その状況や不安を出来るだけ考えないようにしたり、見ないようにしたり。でも主人公を見ていると、どんなに考えないようにしても、中々難しいとも感じた。だって人間、いつまでも仏のようには耐えられないから。

そこで僕なりの対処法としては、”どんな人でも何かしらの地獄を抱えながら、生きている。人間、時々壊れることが普通なんだ”と思うことにして、辛い毎日を生きている。主観で解決しようとせず、俯瞰的に捉える。これは作中で主人公が最悪な状況を乗り切るために抱いた「かわいそう」の気持ちと似ていると思う。

僕は、去年事故にあって、思い描いていた人生プランが狂ってしまって、一時期うつ病になったり、不眠症になったり、生き地獄のような日々を体験した。克服した現在も、これからどうするのか、どう生きるかも、全く決まっていない、まっさらな状態で、たまに不安になることもある。そういう時は、家族の問題とかガンや重い病気とか、自分以上に過酷で辛い日々を過ごしている人もいるのだと思うと、なぜか気が楽になって、不安だけど、頑張ろうとか、少し前向きな気持ちになれる。

主人公のように、目の前で困っている人を見た時の「かわいそう」という感情は、「助けなきゃ」という行動を生み、それが例え偽善だろうが憐れみだろうが、結果的に誰かを救うことに繋がる。ただ一方で、自分よりも相手の方がもっと辛い状況にいて、かわいそうだなと思えると、少し気が楽になるのも事実で、どうやら「かわいそう」という言葉には二面性があるみたいだ。

この本を読み終えたあと、映画「ファイトクラブ」で不眠症に悩む主人公(エドワードノートン)がガン患者の集まりに参加すると、その日は自分よりも不幸な人がいるんだと安心して眠れていたことを思い出した。やはり他人への「かわいそう」という憐れみの気持ちを向けることは、自分自身が最悪の状況を乗り切るための割と良い方法なのではないかと思ってしまった。

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