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たらちねー母と私の「始まり」と「終わり」~天神亭日乗18

九月十四日(木)
 母が危ない状況であると電話が入った。
 職場の予定をキャンセルして帰ることにした。母とできれば何とか、最後に言葉が交わせれば。

 母の認知症の兆しはかなり前からあったが、コロナでしばらく会わない間に、母は完全な「認知症の人」になっていた。妄想、幻視に彼女は囚われていた。

 五月の連休に帰省した。父から様子は聞いていたが、確かにもう目がおかしい。何かぶつぶつ言っている。朗らかだった美しい母がすっかり山姥のようになってしまった。
 夕食を食べながら、いつも通り私が馬鹿噺をしていると、母がじいっと私を昏い目で見て言った。
「あんた…妊娠しとるやろ」
 思わずビールを吹き出しそうになった。認知症の人の被害妄想の話はよく聞くが、娘が孕んで帰ってきたという妄想譚は初めて聞いた。
 横で聞いていた父もびっくりしていた。おそらくゴールデンウィークのニュース映像で子ども連れの帰省客のインタビューを見たせいだろうと言う。「ああ、この子も孫を連れてきたらな」という願望が、妄想妊娠につながったというわけだ。

 お盆が台風とぶつかってしまい、私は夏の帰省が出来なかった。このまま母が逝ってしまうと、この私の妊娠疑惑の会話が母とした最後の会話になってしまう。せめて一言。感謝の言葉なのか、それとも謝罪の言葉を言うべきか。何とか間に合ってほしい。母と言葉をかわしたい。祈りながら新幹線で西に向かった。

 病院は県内のコロナ発症状況により、面会は一人ずつ15分。タイマーを持たされて、母の病室に入る
 母は虚ろな目をしていた。手が丸いミトンのようなもので包まれている。手を自由にさせておくと、点滴のチューブを引き抜こうとしたり、オムツを取ろうとしたりすると聞いていた。

「お母さん、ただいま。帰ってきたよ。」
 私は母にそう声をかけた。表情は変わらない。私のことももう分からないのかもしれない。入院してから私の名前を呼んだことがない。
 しかししばらくして、母は少し目をこちらに向けて、小さい声で言った。
「においを、かがせて・・・」
驚いた。手を縛られ、触覚も、そしておそらくもう目もはっきり見えないのかもしれない。私の名前ももう呼ばない。そんな母が身体を横たえながら一生懸命何かの体の感覚で、私をとらえようとしている。残されたのは嗅覚なのか。涙がこぼれた。私はベッド脇にかがんで、母の鼻元に額を寄せた。
母が口を開いた。
「・・・ふつう。」
えっ?母を見た。つまらなそうな顔をして上を向いていた。
 ちょっと待て。そこは「いい匂い」とか名前呼ぶとかっちゃうんか。少し笑って母にツッコミを入れた。
 逃げ水のような母の認知機能はもうその台詞についてのやり取りを許さない。また目は空を虚ろに見ていた。
「お母さん、ごはん食べんばよ。うちに帰らんばよ」
 長崎で入院していた時に繰り返していた、長崎弁での励ましを、私はその後繰り返していた。
 そして15分のタイマーが鳴った。
 まだ暫くはこの状態が続くと聞き、私は東京に戻った。

九月十五日(金)
 
出勤。一緒に組んで仕事をしているUさんに母の状況を説明した。彼女は同世代で四人の男の子のママだ。ご主人のご両親をつい先頃続けて送ったご経験もある。
 母が私に「匂いをかがせて」と言って結局「普通」と言われた話を笑いながらした。Uさんも少し笑ったがすぐ真剣な表情をしてこう言った。
「来栖さん、ひとり娘ですよね。女の子は赤ちゃんのとき、いい匂いするんですよ。お母さん、それを思い出していたんですよ」

 母は二人の男の子を生んで、お腹に宿った三人目が私である。妊娠中、どんどんきつい顔になってきたので、また男の子だと自分でも思い、周りからも言われていたという。
 昭和47年の元旦の真昼間。私は髪の毛を振り立てて大音声で生まれてきた。
 おんなのこ!
 わたしの娘、わたしの娘、わたしの娘。母は生まれたての私の匂いを嗅いだのか。赤ちゃんの私はいい匂いがしたのか。

 記憶と妄想が交錯する死の床に身体を横たえて、母は分娩の日を思い出していたのかもしれぬ。娘を生んだあの日の明るい光と赤ちゃんの私の匂いを。

 その日の深夜1時。新月の夜。月の光も射さぬ病室で、母は独り、息を引き取った。

*歌誌「月光」82号(2023年12月発行)掲載

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