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【短編】パンとビール(2/3)

あらすじ:看護師の綾子と何でも一緒に住むようになって二年。私は、珍しく定時で夜勤を終えた綾子と朝食の食卓に着いた。いつもと違う様子に心当たりがある私は、たわいもない話で綾子の心をほぐそうと試みる……。

【短編】パンとビール(1/3)より続く

(2,493文字)

 十時頃。気分転換にコーヒーでもれようと食堂に行くと、うつむき気味にイスに腰掛けた綾子の姿があった。
「あれ。、まだ寝ていなかったのかい」
「うん。何だか寝はぐれたみたい」
 やはりそうだ。一つ屋根の下で暮らすようになって、もう直ぐ二年。その間に、何度かこんな状態の綾子を見ている。

 病院では回復して退院していく患者もいれば、不幸にして亡くなる人もいる。綾子のいる部署は後者が圧倒的に多いと前に聞いたことがある。今回もそういう方だったのだろう。その度に家族のように嘆き悲しんでいては身も心も持たないだろうし、かと言って淡々と事務的に処理することも彼女の性格ではできないのだろう。
 最初は戸惑ったが、こういう時は、端からどうこう言っても仕方ない。結局は自分の中で折り合いを付けるしかないことぐらい、綾子も分かっているだろう。それができないのなら今の仕事を辞めるしかないことも。

 私は、それまで当たりさわりがない話でもしながら、彼女の気持ちを少しでもやわらぐまで、じっと待つことしかできない。
「コーヒーでも淹れる? それともビールにする?」
「飲み過ぎはよくないから、コーヒーを頂くわ」
 しかし綾子はコーヒーカップに手を伸ばそうとはせず、表面に立った波をじっと見ている。
「大丈夫かい?」
 私が尋ねると、綾子はおもむろに首を横に振る。否定しているでもなく、放っておいて欲しいというのでもない。
 私は綾子の隣に座り肩に手を回した。

「ほら、バス停に行く途中に店っぽくない店というか、普通の家っぽい店があるの、知ってる?」
「バス停までの坂道の中程でしょう。私も気づいてた。確か名前に田という字が入ってたように記憶しているけど」
「田ノ宮、だよ」
 その店のドア横の壁には、いぶした銀色の金属板の表札が二つ、上下に並んでいた。上のはローマ字で、下のは漢字で名前が彫られている。この頃は二世帯住宅が増えていることもあって、屋号とは気づかない人が多いのではないだろうか。

「何のお店なのかしら?」
「さあね。屋号だけじゃ、見当もつかないよ」
「案外こんなお店が美味しかったりするのよ」
 彼女はすっかり食べ物屋と決めつけている。
「まだそうと決まった訳じゃないよ」
「いいえ、私の勘はよく当たるのよ」
「でもあんな場所で商売になるのかな?」
「美味しければ千里の道もいとわないって人が、結構多いのよ。それにSNSで評判になれば、猫もしやくもこぞって来るわよ。あの屋号だと和食よね。いや洋食屋だったりして」
「どっちだよ」

「一見さんお断りかも」
「今時?」
「今の時代だからよ、スペシャル感って大事でしょう。会員制かも知れないわよ。言っておくけど、先に見つけたのは私だからね」
 綾子は自分の手柄のように言う。
「分かった。調べておくよ。ほら、そろそろ休んだ方がいいよ」
 じゃあ、頑張って眠ってみるわ。綾子は部屋に戻って行った。


 バタン。いきなりドアが開けられた。私は慌てて本を閉じた。時計を見ると、まだ昼には少し間がある。
「やっぱり眠れないの。じっと横になっているのもしやくだから、ちょっと出掛けてみない?」
 綾子は疲労をにじませた声で言う。
「僕はかまわないけど。大丈夫かい?」
「眠れないのにベッドでごろごろしているのは時間の無駄でしょう。それに明日は丸々一日休みだから、いいの」

「どこに行く?」
「久しぶりに映画が観たくなったわ。眠気がぶっ飛ぶくらいの激しいアクション物がいい!」
「でも暗い館内にいると、泥のように眠るんじゃないか。いつぞやみたいに」
 私は上映スケジュールを調べるのに、パソコンのスイッチをいれた。
「健介はさぁ、たまに変なことするよね。朝もぼーっとしてたと思ったら、いきなり指引っ張ったりするし」
「ああ、あれ。左手の中指を引っ張ると、思い出せそうで思い出せないことを思い出せるんだってさ。この間、年配のお客さんから教えてもらったんだ。おまじないみたいなものだよ。この頃、ご高齢の方の依頼が増えてね。終活って言うの、そんな言葉好きじゃないんだけど、仕事の後、よくおしゃべりしてるからかな」

「ふぅーん、そうなんだ」
「あっ、それで思い出したんだけど、僕の行きつけのラーメン屋さんがあってね。そこの女将さんが、かき泰子さんって言うんだけど、ご主人との出会いの時のことを話してくれてさ。これがすごいんだよ」
「どういうこと?」
「夫は強盗だったって言うんだ。もっとも未遂だったらしいんだけど、驚くだろう」
 綾子は「何に、それ」と言いながら、部屋の隅から折り畳み椅子を引っ張り出してきて、腰を降ろした。興味を覚えたらしい。パソコンが立ち上がったが、私はそのまま話を続けた。

「三年ほど前にご主人が亡くなってね。それから女将さんは独りで頑張って店を守ってきたんだけど、そろそろ体力的に厳しくなってきて、畳むことにしたらしいんだ。そこで店の後片付けを手伝ってくれないかって、先日依頼があってね。その時に聞いたんだ。
 四十年ほど前のことらしいんだけど、その頃はご両親と三人でラーメン屋をやっていたそうだ……」

 それは夜九時頃、泰子がれんを下げようとした時だった。若い男が一人店に入ってきた。もう店仕舞いですと断ろうとしたが、父親がいいと言うので泰子は席に案内した。男は大きな黒いマジソンバッグを一つ足元にどさっと置いた。男は一番安いラーメンを頼んだきり、待つ間もうつむいたままだった。食べ終わっても、じっと丼を見つめたまま身じろぎもしない。
 泰子が水を注ぎに行った時、男の拳がももの上で硬く握られ震えているのを見た。ひどく思い詰めたような横顔だった。泰子はイヤな予感がした。その時、男は意を決したようにバッグを取って腰を上げかけた。その時、バッグからごとんと音を立てて何かがこぼれ落ちた。巻いていた布がめくれて出刃包丁が見えた。
 ひっ。強盗!。母親と泰子は思わず息を呑んだ……。

【短編】パンとビール(3/3)に続く


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