【心を落ち着かせる本】雨が降り続くのに嫌気がさしたら・・・
「雨が続いて嫌な気分」
こんなことを思ってはいませんか?
梅雨に入り、雨が続く日々になると鬱鬱とした気分にもなってしまいますよね。
ですが、雨は同時に欠かせないものでもあります。雨がなければ水うが手に入らなく、それは命に関わるもの。
そのため、とりわけ日本で暮らすわたしたちの生活に「雨」は密接な関係でした。
「梅雨」「五月雨」「時雨」「雨乞」「恵みの雨」「晴耕雨読」・・・
言葉は思考をつくる、とは以前も言った通り。
思考とは、つまりそこで生きる人たちの文化そのものです。
これほど「雨」に関する言葉が豊富なのは、世界でも稀有。
今回は「雨」のお話。
ちょっと視点を変えて、雨を考えてみましょう。
1.「気がつけば、雨を待っている」・・・新海誠「言の葉の庭」
「鳴る神の 少し響(とよ)みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
2019年5月に「平成」が終わり、新たに元号が「令和」と変わりました。
その「令和」という言葉は万葉集から取られたため、書店では万葉集第5巻が売り切れるという事態が発生していました。
しかし、この「万葉集」が注目されてきたのに、新海誠氏の「君の名は。」の影響は否定できません。
この「君の名は。」がヒットする前の前作、「言の葉の庭」をご存知ですか?
こちらは「君の名は。」よりも万葉集の言葉をメインとして作られた作品。
繊細な心理描写、色彩表現が際立つ作品ではありますが、この中で最も印象的なのは「雨」ではないでしょうか。
自信のインタビューでも「雨」は第三の登場人物だと言うほど。
これには、新海誠自身に影響を与えた一冊でもある『日本近代文学の起源』にある「風景の発見」が影響しているのではないでしょうか。
この概念・視点は非常に「言の葉の庭」における「雨」のイメージに近いのではないでしょうか。
ここでいっているのは、私たちが一般に「風景」というものは、欧米的なある事柄の裏側、背景であり、いわば脇役のもの。
つまり、「表」があれば「裏」がある、というような関係性ができてしまうということ。
しかし、中国から派生した日本文化的な〈風景〉は、こうした「表裏」の関係性を作らなかった。つまり西洋的な「風景」は存在しない、ということです。
そうして考えてみると。
「言の葉の庭」における「雨」の存在も、単に登場人物やストーリーのバックにある「風景」ではない意味があるのではないでしょうか。
これについては、個人の解釈もあります。
また、ここについて話すには、より『日本近代文学の起源』に入り込まなければいけないので、ここでは「視点」の提起だけで留めておきます。
ぜひ、そうした単なる「風景」としてみないで作品をもう一度みてみると、また違った世界になるかもしれません。
また、映画は50分程度のものですが、小説版では映画で描かれていない人物の心理を描写された長編物になっています。
まだ片方しか見ていないという方は合わせてどうぞ。
2. 「雨のこと、実は何も知らない」・・武田喬男『雨の科学』
先ほどは「雨」というものは単なる「風景」ではなく、別の味方があるのではないか、と言いました。
しかしちょっと待ってください。
考えるにしても、私たちは「雨」のことをどれほど知っているでしょう?
確かに「雨」というものが存在するのは知っている。
でも、なぜ空から雨が降ってくるのか、わかりますか?
例えば、なんで雨は滝のように落ちずに、粒になって落ちてくるのでしょう。
こんなにも「雨」を見ているのに、「雨」を知っているのに、わからないことって多いですよね。
「雨って一体なんだろう」
文学的意味を考えるのに、科学から入ってみる。
確かに情緒を考えるにはナンセンスかもしれません。
でも、知っているのと知らないのではまさに雲泥の差。
知ってみて、そこから考えるのでも悪くないではありませんか。
ちょっと、「自分を高める」とか「働く」とかに疲れたら。
身の回りの景色に思いを馳せてみても。
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