「自分の方が優れている」のに、なぜ他人ばかり・・・と悩んでいるなら・・・中島敦『山月記』


「なんであいつなんかと一緒に働かなきゃいけないんだ・・・」
「自分はもっとできるのに・・・」
「自分の気持ちなんか誰もわかってくれない・・・」


今回のテーマは「尊大な羞恥心」「臆病な自尊心」。
聞きなれない言葉ではありますが、どこかで覚えているかも、という人もきっといるはず。

どこよりも深い『山月記』の世界を覗いていきましょう・・・。


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1. 『山月記』とは?

まず、知らない方もいると思いますので、この『山月記』とはどんな話かを説明しましょう。


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 唐の時代、李徴という男がいた。李徴は名の知れた天才だったものの、性格は頑なでプライド高く、俗人の下で働くことが我慢ならなかった。

 そのため、仕事を辞めて人と関わることなく、詩を書き名を残そうとしたがなかなか名は揚がらず、生活に貧したため志半ばにして、再び役人へと成り下がったが、ついに発狂し「虎」になってしまう。

 翌年、袁傪という李徴の唯一の親友が遠征に出た時、一行は虎に襲われそうになるが、虎は急に襲うのをやめて草むらに隠れた。するとそこから「危ないところだった」と声が聞こえる。その声は李徴のものであった。

 袁傪はなぜそんな姿に、と李徴に聞く。すると、一年前に旅に出た際、宿の外から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。その声が聞こえる方に走り出すと、いつしか身体は虎になっていた。夢だと思った。なぜこんなことに、と考えたが

「理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」

と。

 だんだんと自分の心が「虎」になって行くのがわかると言う。まだ人間の心があるうちに詩を残させてくれと袁傪に伝えるも、それは一流には欠けるものがあった。

 李徴は自信を振り返ると、人と交流を避けて孤高でいたのは、ただ才能のせいではないと言う。それは人と関わることで、自分の才能のなさを知るのが怖かったのだ、と。自身のプライドを守るための「臆病な自尊心」だった、と。だからこそ、誰かのもとで学ぶことも、仲間と切磋琢磨することもできなかった。だからと言って、今更俗物と交わることもできなかったと言う。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することもできなかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。

李徴は、自分の可愛さゆえにより高みを目指すこともできず、またプライドの高さゆえに全てを捨てて俗として生きることもできなかった。

思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」

事実としてわかっていたものの、
そして他人には人生の儚さを口にしていたものの、実際にはただ「臆病」なだけであったと。

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪まらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼る。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。

こうして李徴は袁傪に妻子のことを任せ、そのまま別れを告げ、草むらへと消えていった・・・。

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以上が、『山月記』の大まかな内容です。



2. 悲しき李徴の叫び。


さて、これをあなたはどう読んだでしょうか?

これはきっと2手に分かれるでしょう。
ふーん、と冷静にみる人と、「まさに自分のことかも知れない」と思う人。


私は、少し前まで後者のように読んでいました。

つまり、これは「まさに自分だ」と。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することもできなかった

私は学生のころまでは、特にこの状態でした。
周りの人や大人は愚かな人物としてみていたのです。

それにも関わらず、ろくに勉強もしないで、ただ漠然とそう思っているだけだったんです。

それは今思えばですが、過去のコンプレックスに過ぎなかったんですね。

私は親や教師から才能を評価してもらう、という経験がありませんでした。
100点以外は価値がない、大して面白くもない「答えを探す」勉強をひたすら繰り返される日々。

かといって家には教養になるような本はなく、思考を鍛えると言うこともなかなかにできなかったのです。
小中も高校も思考を鍛えるような仲間はほとんどいなく、ただ一人「内側」でこもっていたんですね。

でも、それはやっぱりいいことではなかった。

今でこそ、そうした経験があるから今があると思えますが、それは良かったのかと言うと、やっぱりエゴ、独りよがりの思考でしかなかったと思います。

思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。

そう、こう李徴が自嘲するように、そうした独りよがりの考えは、「自分の才能」だとか「魅力」を考えようとする行為とは真逆なのです。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

それは、ただ努力していない自分に言い訳し、現場に甘んじて不平不満を言うことでしかなかったんです。

SNSで「マウントを取る」というようなこともそうでしょう。

自分に力がないのをわかっているけれど、それをプライドが邪魔して晒すことができない
少し前であれば、「意識高い系」と言われていた人たちがそうです。


3. 「意識高く」て何が悪い?

そう、かく言う私も、当初は「意識高い系」だったんです。

「かっこよく見せるには」
「頭良く見せるには」

そんな思考から入って行きました。

しかし、それは悪いことなのでしょうか?

正直に言えば、良い・悪いでは判断つけようがないと思います。


確かに、短期的に見えれば、それは独りよがりで、あまり歓迎されることではないかも知れません。

ですが、私はこう思うのです。
「意識高い系」は「他人目線」の思考に変わるまでの成長過程なのではないかと。

しかし、それが成長せず、そのまま大きくなってしまうと、李徴のようになってしまいます。

己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。


これはファッションにおいても同じことが言えるでしょう。

よく、ファッション好きが高じると「自分の着たいものを着て何が悪い」というような声を聞きます。
しかし、これこそ「臆病な自尊心」ではないでしょうか。

おしゃれは何のためにするのか、を考えるのは相当に難しく、思考の体力がいること。

「自分はどう言うものを着たいと思っているのか」
「自分の好きをあらわす服とは何か」
「どんなふうに着ればかっこいいか」
「自分のあり方を表現するにはどうすればいいか」
「いま、行く場所にこの服はあっているか」
「会う人に、この格好はふさわしいか」
・・・など、無数に考えることはあります。

ですが、それぞれを考え、その交差点を導き出すのは至難の業。

だからこそ、どれかを削って、あるいはどれかしか見ないで、「これでいい」と考えるのを放棄してしまう。

でも、そうやって「考える」のを諦めた。
もしくは「考えられない」というのを知られたくないから、
「自分の着たいものを着て何が悪い」
「このおしゃれがわからない方がダサい」
そういう思考になってしまうのではないでしょうか。


知の巨人であったソクラテスも「無知の知」を説きました。
つまり、知らないことが何かを知り、その上で知らないこと、わからないということを認める。

それが発狂し、「虎」とならないための教訓ではないか、と私は思います。


皆さんはどう考えますか??


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