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五:『海洋学者の疑問』

「私は、海洋学者だ」
 声をかけるとこの人はいつもそう答える。聞いてもいないのに毎回そう名乗る。

 防波堤の先端に佇んで、今日も海を見つめている。腕を組みながら、朝から晩までずっと何かを考えている。
 先生は足の短い小太りのおじさん。白衣に眼鏡をかけていて、鼻の下に左右の両端をぴんと跳ね上げた髭を生やしている。
「先生は今、何の研究をされて?」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 よくぞ聴いてくれた。私が今研究しているのは、海で最も不可解で、最も不思議なことだ」
「それは何でしょう」
「コホン。私がいま研究しているのは、『なぜ海はしょっぱいか』というものである!」

「そんなことですか?」
「むむむ……。
 では、君は知っておるのかね?」
「塩が含まれているからですよ」
「なぜ、なぜ、なぜ。
 なぜ海には塩が含まれておるのだ」
「塩の成分が多いんです」
「なぜ、なぜ、なぜ。
 なぜ塩の成分が多いのだ?」
「……うーん、先生の今のご意見は?」
「うむ! よくぞ、聞いてくれた」
 先生は髭を触りながら得意げに言った。
「海をしょっぱくしているもの、あれは〈記憶〉なのだ!」
 
「……ちょっと分からないです」
「おや、おや、おや。
 なんだ? ピンとこんか?」
「全然きません」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 では説明しよう」
「お願いします」

「人は死んだら天にのぼるだろう?」
「人は死んだら土に還るのでは?」
 先生は首を傾げる。
「おや、おや、おや? 
 おかしいな。天文学者は学会で『人は死んだら天に昇り、星となる』と発表しておった。はて?」
「そうですか。それは存じませんでした」
 
「さて、さて、さて。
 私の仮説の続きだ。死んで天に登り、生まれ変わる準備を始める。そして準備を終えた後、海に落ち、海から生まれてくる」
「人間もでしょうか?」
「そうだ」
「お母さんからではなくて?」
「それは肉体だろう。私が話しておるのは魂だ」
「魂は海から生まれてくるのですか?」
「そう、そう、そう。
 その際に前世の記憶を海で洗い落とす。その時の〈記憶〉がこの塩なのだ」
「なるほど。それで何故しょっぱいのでしょう」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 私の考えからすると、だ。人の一生は甘くない。どうにも塩っ辛い。だから生きにくいのだなぁ」
「はあ……」
 
「さて、さて、さて。
 その理論でいくと、海から前世の記憶を抽出できるのではないかと考察したのだ」
「それで成果は?」
「それがさっぱりなのだ……塩はとれるが、記憶へと変える術が分からぬ。もしかすると、私の仮説が間違っているのではないか、根底から考え直す必要があるのではないか、と考えておった。
 そこでだ。君の意見を聞こうじゃないか。なぜ海はしょっぱいと思う?」
「さっきも言いましたが、はじめから海は塩分が多いんです」
「はじめからとは?」
「海が地球に出来た時からでしょうか」
「なぜ、なぜ、なぜ?
 なぜ海が出来たとき、塩分が多いのだ。私はそれを聞いておる」
「……そういうものなのでは?」
「そういうものとは?」
「そう決まっているんです。あれはただの塩です。海には塩分が含まれているからしょっぱい。ただそれだけです」
 先生は髭を触りながら、「ふむ……」と呟いたあと、
「きみ、きみ、きみ。
 なぜ決めつけてしまうのかね」
 と言った。

「そうやって決めつけて……海に失礼だと思わないかね?」
「海に失礼、ですか?」
「君が海の立場だったらどう思う?」
「海の立場……」
「勝手に決めつけられるということは、とても怖いことではないかね? 君のことを勝手にアレコレ言われたら嫌だろう?
 それに相手を決めつけているということは、自分も決めつけるということになるぞ。それではとても窮屈だ」
「…………」
「あらゆる可能性を考えること。それこそが、この塩辛い世の中を生きていくには必要なのだよ」
「……そうですね。この近所で先生は、〈頭のおかしくなった人〉と決めつけられていますしね」
「な、な、な、なんと!」
 先生は飛び上がり、尻餅をついた。

「さて、さて、さて、
 君の意見はもうないのかね?」
「では……海は、悲しんでいるのではないでしょうか」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 なぜ悲しいとしょっぱいのだ」
「悲しいと涙が出るじゃないですか」
「なるほど、なるほど、なるほど。
 しかし、嬉しくても出るではないか」
「では、泣いたり喜んだりしているのだと思います」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 つまり君は、海がしょっぱいのは〈涙〉である、という説を唱えるのだね」
「そのような見解もあるかと!」
「ほう、ほう、ほう!
 ではなぜ涙だ? 汗ではだめか? いや、そもそも誰の涙だろうか。海の涙以外の可能性もあるな」

「もう、僕にはよく分からないです」
「ふむ、ふむ、ふむ。
 しかし、助手よ」
「ぼくはただの近所の子供です」
「なんと、そうだったか!」

「海と話が出来ればいいですね……」
「なぜ、なぜ、なぜ?
 なぜ話ができればいいのだ?」
「そうしたら決めつけずに、海に直接聞けるじゃないですか。『どうしてしょっぱいんだ』って」

「それはだめだ」
「なぜ、なぜ、なぜ。
 なぜですか?」
「それではすぐに答えが出てしまう。私は考えることが好きなのだ」
「はあ……」

 海洋学者の疑問はつきそうにない。


第五話「海洋学者の疑問」おしまい。


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