見出し画像

虫垂炎体験記(ウサギノヴィッチ)

ただいま。

この前まで、虫垂炎で入院をしていました。
詳しいことはラジオの方で話しました。

繰り返しになりますが、それについてと病院での生活についてを書いていこうと思います。

序盤の方はほぼほぼ記憶がなくて、とにかく関係者に連絡をしなくてはいけないということだけで崩壊した日本語でメールやLINEしていました。
最初の方は中々、体調の方が治らず、その中でもぼくの記憶は混濁したまま、ただ点滴を打たれているだけでした。
意識がはっきりしてくると、喉の渇きを覚えました。本当は飲食禁止だったのですが、内緒で、水を買いに行ってもらい、水を飲むようになりました。病院の方もそれがわかると食事だけの禁止になりました。ただただ、水を飲むことだけの欲はあるものの、食事に対する欲は有りませんでした。
その頃から体調は良くなりました。とは、言っても万全ではありませんでした。「上向いている」という形容が正しいと思います。
それから繰り返しの日々が何日か続いて、次の採血の日に先生に「状態は良くなったから、軽い食事から始めましょう」という話になった。その軽い食事というのが、五つの薬味が乗ったカピカピに乾いた蕎麦と焼売と小鉢があと二皿だった。ぼくは、これを見たときに「試されている」よ思った。自分がどれだけ食べられるのか、なにが自分が食べられるのか。当然の選択として、ぼくはカピカピに乾いた蕎麦を四分の一くらいしか食べなかった。もちろん、蕎麦なんのによく口の中で噛んで食べた。
ただ、その夜からは変わって、重湯が出た。重湯は飲み物だと思った。重湯と味噌汁とミルク的なものが出た。二つのお碗を両手に持って、交互に飲んでいく、味のしない重湯を味噌汁で調整して飲み込むように。
また、繰り返しの日々が続いていく中で、一回だけ、お風呂に入ることがありました。
お風呂に入れることが嬉しいですが、自分が点滴に繋がれていることから、一旦離れることができることが嬉しかったです。
お風呂は二十分と決まっていて、風呂場は民宿の風呂場の大きさくらいでした。ただし、浴槽が深くてぼくはけっこう背が高いのですが、それでも十分肩まで疲れました。二十分の時間は筋力と思考力が落ちている人間にはあっという間に過ぎてしまって、着替え終わると外に看護師さんが待っていました。それから、髪を乾かすときやトイレに行くときに自分が点滴に繋がれてないことちょっと優位に思いつつ、ナースコールをして点滴に再度繋がれました。
数日後の金曜日、朝に採血があって、「あぁ、また血が抜かれてるなぁ。注射針見たくないなぁ」なんて思っていたら、採血は終わっていて、午前中はいつもの午前中で、その日もテレビではコロナウイルスについてやっていて気が滅入ってしまった。お昼になり、昼食が運ばれる前に看護師さんがぼくのところにやってきた。
「うさぎさん、明日、退院していいってー、あとで先生がくるけど、そういうことだから」
全てが真っ白になった。ぼくの見立てだともっとかかると思ったからだ。
昼食が運ばれてきて、あんまり食べるものがゆっくり食べている主治医がやってきた。
「あぁ、うさぎさん。明日、退院てことで、急遽だけど、うさぎさんの常備薬がうちでは扱ってないのよ。だから、申し訳ないけど、明日、退院してもらって、そのまま病院に行ってもらえるかな。血液検査の方はバッチリだから」
なんとも解せない理由も混じっている退院の話だった。
翌日、面会謝絶だが、親が荷物とか手続きとかで来てもらい、無事退院したが、池袋の心療内科に行き、在庫ゼロの薬を補充しに行った。そのとき、歩くことがしんどいと思ったし、右足の腿の部分をやってしまったようだ。
久しぶりの家はどうだったか?
入院中に、親に全てを片付けられてしまい、どこになにがあるかわからない状態になっている。とにかく居心地が悪い、すわりが悪い。
ただ、健康が一番だということが今実感できることである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?