本当に大切なものを忘れないために。〜学校の教員の価値と倫理について〜

この記事の性質について

この記事は、僕自身の備忘録だ。

だから、誰かに何かを言おうとするものではない。

けれども、何にも触発されずに生まれてきた自分の意見なんていうものはないから、僕がこの記事を書きたいと思ったきっかけがあるのもたしかだ。

でもまぁ、そんなことは瑣末なことで、大切なことは、僕自身がここで書くことを忘れないことだと思っている。

けれども、僕がここで書いていることが、誰かが何かを考えるきっかけになったならそれは幸いなことだと思う。

ただ、何も与えなかったなら、それでいい。

僕の記事は、いつも大体そんなスタンスだ。

そう思って読んでもらいたい。

学校の教員の価値と倫理というテーマ設定

今回の記事で書くのは、学校の教員の価値と倫理についてだ。

このテーマに関しては、いろんな考え方がある。

だから、僕の考え方が唯一ではないと思う。

僕と異なる考え方をする人がいても、それはそれで別に構わない。

けれども、僕は、こういう整理の仕方をして、こういう考え方をするということを書いてみようと思う。

学校内での成果と学校外への発信

まず、学校の教員の価値を考える上での二つの軸として、勤務する学校内での成果と学校外への発信という軸を立てることができるように思う。

最近は、学校の教員が、自分の勤務校で自分の仕事をするだけでなく、学校外へ発信したり、何か価値を届けたりするということが多くなってきている。

いや、こういう傾向は最近に始まったことではないのかもしれない。

僕が生まれる前から、民間教育運動の有名人たちは、書籍を通して様々な実践を紹介して広く社会に問うということをしてきたし、学校の枠を超えた研修などもたくさんあったことだろうと思う。

ただ、SNSの発展によって、そういうものが見えやすくなったという側面はあるように思う。

僕(藤原 敬)の運営する『ディアローグ』も、学校外への発信の一つであるといっていい。

さて、学校の教員の価値を考える際に、勤務する学校内での成果と学校外への発信という二つの軸ができると、その二つの軸のそれぞれの評価が生まれることとなる。

学校内外の二つの軸を評価軸にして教員をとらえると、勤務する学校内では「どうしようもない先生」として有名だけれども学校外で講演会をやらせれば喋りは一級品みたいな教員が生まれてくるというわけだ。

そして、学校外の人間からは学校内のことは見えないから、学校外ではチヤホヤされることになる。

一方で、学校内では、「あの先生、学校外でチヤホヤされてるけど、実態はこうなのにね…」というような噂をされることになるかもしれない。

ただし、そういう噂は、あまり外には出てこないから、学校外ではやっぱりチヤホヤされ続けるということになるかもしれない。

反対に、学校内できちんと仕事をして学校内の同僚から評価されたり慕われたりしているけれども、学校外での発信はしないという教員もいる。

そういう教員は、学校外で名前が知られることはほとんどないため、学校外で評価されることはほとんどないが、学校内では、大きな信頼を得ることになる。

簡単に整理すると、以下の4つに類型化できるということになる。

①学校内の評価=高、学校外の評価=高
②学校内の評価=低、学校外の評価=高
③学校内の評価=高、学校外の評価=低
④学校内の評価=低、学校外の評価=低

ところが、この4類型によって、教員のあり方を整理できると考えるのは安直であるように思われる。

どういうことか。

評価と内実(学校外の評価について)

なぜ先にあげた4類型で教員のあり方を整理することはできないかというと、往々にして、評価と内実は異なるということがあり得るからだ。

たとえば、学校外の評価が高いといっても、評価する側の評価能力が低ければ、その人の学校外の評価は高いけれども、実質的な内実は伴っていないということがあり得る。

もしくは、あるサークルの中では高い評価を受けているけれども、異なる評価軸を持った人たちから見れば、あまり高く評価することはできないということもある。

反対に、学校外での評価は低いけれども、実質的にとても価値のあることをしているという人だっている。

外から高い評価を受けるために情報を拡散することで、もともと高い価値を持っていたものがその価値を損なうということもある。

これを先にあげた4つの累計に掛け合わせると、4つの累計は8つの累計に分岐することになる。

①学校内の評価=高、学校外の評価=高、内実=伴◯
②学校内の評価=高、学校外の評価=高、内実=伴×
③学校内の評価=低、学校外の評価=高、内実=伴◯
④学校内の評価=低、学校外の評価=高、内実=伴×
⑤学校内の評価=高、学校外の評価=低、内実=伴◯
⑥学校内の評価=高、学校外の評価=低、内実=伴×
⑦学校内の評価=低、学校外の評価=低、内実=伴◯
⑧学校内の評価=低、学校外の評価=低、内実=伴×

これだけでも、かなり複雑だが、ひとまず、①と⑤の人は信頼できるといえるかもしれない。

けれども、それは、少なくとも、学校内にいる人間でなければ評価できない。

あるいは、③や⑦も、学校外で有意義な内実を伴ったことをしていると考えれば評価できるのかもしれないが、⑦などは、どこからそのように判断できるのかがもはや分からない。

学校外の評価をもとに判断しようとすれば、ひょっとしたら、④の人を⑦と判断してしまうことにもなりかねない。

評価と内実(学校内の評価について)

学校内の評価については、さらに複雑だ。

なぜなら、教員は、様々な立場から評価することができるからだ。

たとえば、管理職から見た一人の担任の評価と、同僚の担任から見た一人の担任の評価は、異なるものであるかもしれない。

もちろん、どちらからも高い評価を受ける担任こそが優れた教員だという見方もできるだろう。

しかし、担任同士で子どもの実態を的確にみとって、子どもにとって有意義な取り組みをしようとして、それを管理職に阻まれるということもあるだろう。

その場合、管理職からの評価は低いが、同僚の評価は高いということもあり得る。

たしかに、そこで管理職にも認められるような論理を提出できれば、その方が良いのはその通りだが、管理職にも同僚にも八方美人に振る舞って無難なことしか言わないで周りの評価を上げるも、肝心の子どもにとって有意義な教育活動ができていなければ、教員としての活動に価値のある内実は伴っていないということになるだろう。

たとえ、管理職からも、同僚からも、評価をされなかったとしても、子どもたちや保護者から絶大な評価を受け、支えられながら、有意義な実践を続けている人もいる。

さらに言えば、子どもたちや保護者からも、誰からも評価されなかったとしても、実は、後々、子どもたちにとってとても有意義な実践だったということが分かるということもある。

この場合、子どもたち自身が振り返って自分にとって有意義だったと感じられるということもあれば、教育を受けた子どもにとっては最後まで有意義だとは思えなかったけれども、その子どもの周りの人間から見て、あの教育が実は有意義だったと意味づけられることもあるだろう。

また、誰からも有意義だったと意味づけられることはなくても、それが有効に働いていたという意味で有意義であったということもあるかもしれない。

社会的な意味世界に位置付けられなければその意義は無いものに等しいと考える立場もあるだろうけれども、そうだとしても、少なくとも、一人の人間の意味世界の中で位置付けられないものを社会的な意味世界に位置付けられないものと判断するのは早急な判断であるかもしれない。

教員との接点を持つ人は多く、多様であるため、そのどこかしらの誰かの意味世界の中では、有意義だと意味づけられることもあるはずだ。

少なくとも、それは無いと言い切る権利は、誰にも無いのではないかと、僕は思う。

このように考えると、学校内の評価には多様な異なる立場からの評価があり、さらには、評価には表れない意義もあることから、学校内の教員の評価と内実を測定することは、ほぼ不可能に等しいといえる。

ここに来て、これまでに示してきた類型化は、崩壊することになる。

なぜなら、類型化は、1つ目の類型からこんな形になるからだ。

①学校内の評価(管理職の評価=高、同僚の担任の評価=高、同僚の専科の教員の評価=高、同僚の支援員の評価=高、学級の子どもの評価=高、学級の保護者の評価=高、教員の実践の内実[同僚の評価=高、学級の子どもの評価=高…etc]…etc)、学校外の評価=高、内実=伴◯




この評価の観点をすべて導入しようとし、高低の組み合わせのすべてを算出しようとすれば、膨大な類型になる。

そのような類型化は、そもそも類型化としての意味をなしていないナンセンスなものであるように思われる。

もちろん、その類型のすべてを表すことに意味はなく、簡略化して使える部分のみを取り出して類型化すれば良いという見解もあるだろう。

しかし、そうだとしたら、どの部分を価値のある部分として取り出せば良いだろうか。

どの部分に価値の比重を置くかは、人によって異なるはずだ。

たとえば、学校全体のマネジメントを重要視する人であれば、管理職の評価を重んじるかもしれないし、子どもにとって有意義な教育をすることを思想信条とする人であれば、教員の実践の内実に対する子どもの評価を重んじるかもしれない。

だから、何かしらの価値観や特定の立場からの見方によって固定化しなければ、そもそも類型化をすることすらできないのだ。

そして、何かしらの価値観にもとづいて類型化すれば、きっと、他の異なる価値観からの批判は免れないだろう。

そうだとすれば、評価と内実に対して、一体誰が、超越的な立場から裁定を下せるというのだろうか。

教員の果たすべき倫理

では、教員の評価と内実が、このように、学校内外で複雑に分岐していて、誰も裁定を下せないのだとしたら、教員にとっての果たすべき倫理というものは無いということになってしまうのだろうか。

このような疑問が浮かぶ。

なぜなら、何が有意義であるかということについて誰も何も裁定を下すことができないのであれば、何をしたって何かしらの価値のあるものになるかもしれないしならないかもしれないということになるからだ。

価値のある教育をしようとして努力をしたってしなくたって同じだということになり、果たすべき倫理などというものは無いということになってしまいそうだと思うのだ。

しかし、この帰結は、正しくないと、僕は思う。

むしろ、何が誰にとってどのような価値になるか分からないからこそ、少なくとも教員が自分にとっては価値があると思えることをするということが、教育活動を行う上での最低限の倫理になる。

このように、僕は思う。

この倫理観の基礎には、僕にとっての教育の定義がある。

教育とは、ある事柄に価値を感じている人が、他者に対してその価値を伝えようとする営みである。

僕の中には、このような教育の定義がある。

この定義に賛同しない人もいるだろう。

それはそれで、構わない。

けれども、僕は、教育が教育であるためには、この定義に従っていなければならないと考えている。

だから、教育を行う際に、その内容に対して、少なくとも、教育を行う人がそこに価値を感じていなければならないと思うのだ。

その上で、学校で教育を受ける子どもにとって有意義なものになるかどうかということを検討することが、方法の検討ということになる。

つまり、倫理→方法の順序を辿る必要があるということだ。

結論

学校の教員の価値という話から始まり、教員の倫理と方法という帰結に辿り着いた。

要約すると、学校の教員の価値というのは、多様な異なる立場からの評価と内実がある以上は、超越的に裁定を下すことはできないため、ただ教員にできることは、少なくとも自分にとっては価値があると思うことを、子どもにとって有意義なものになると思える方法で実施していくことでしかないということだった。

だから、僕は、ただ僕にとって価値があると思うことを、僕にできる限りで行う。

僕には、他人の行為についてとやかく言う権利はないけれども、すべての教育に携わる人が、この倫理と方法を守って教育を実施すれば、教育は少しは良いものになるのではないかと思っている。

本当に大切なことは、自分にとって価値があると思うことを、できる限りで行うこと。

そう思う。

そして、そこから溢れ出す余剰効果で、他の人にも何かしらの価値を提供できれば、それは僥倖だと、そのように思う。

それくらいの気持ちでいていいんじゃないかなぁと。

そんなことを思った備忘録。

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