「「世界は贈与でできている/近内悠太」読書記録Ⅰ」2023/08/06

・血の繋がる家族に対して「手段」やメリットを考えることはないが、
恋人に対してはどうだろう。
私は1人で過ごすことも好きで、でも彼と過ごす方が「良い」自分でいられる。そのための力を受け取ることのできる存在だと思った。
もちろん大好きで、愛しているけど、何か許すことのできないことが起きたとしたらいつでも手放せるようにしていたい、と思っている。
許せないことは許せない。執着しない。
だからこそしっかり働いて自分を幸せにできるくらいは稼げる自分でいたいと思っている。
それは彼を「手段」として扱っていることと重なる気がしてしまう。

他者を手段として扱うことで、相手に「代わりはいくらでもいる」というメッセージを伝え続けていることになる。どうしても滲み出てしまう。
すなわち、贈与がなくなり交換が支配的な社会には信頼関係が存在しない。

・交換の論理:交換する金銭、労働力、能力、才能を持たない時、交換不可になったとき、その関係を解消するしか道はない。

私は必死に交換できるカードを増やそう、増やそうと必死になっている所。
もちろん自分を守る為、大切なものを守るためにはカードは沢山あった方がいいけれど、ぞの思考が交換の論理に傾いていることを自覚しないといけない。
いつカードを失うかわからない。
カードが少ない人、失った人に巡り合うかもしれない。
その時に豊かに対応のできる思考の幅を持っていたいと思う。
それをこの本から学びたい。

豊かになりすぎて、贈与のいらない社会が成り立ってしまって、それに
慣れてしまっているのかもしれない。

メリットを求めすぎている。そういう思考は私の中に濃くある。
メリットの見出せない選択をする。デメリットを含む道を選ぶ。

・誰にも依存せずに、きちんと一人で生きていける。
これ大人であり、自由なのだと解釈していた。

・あらゆるものが「商品」となり、
あらゆる行為が「サービス」と成りえる。その可能性を信じ切る態度を資本主義と呼ぶ。


・決して一人では生きていくことのできない脳の小さい未熟な存在と存在として生まれた瞬間からお金に伴わない他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きてゆくことを運命づけられている。
どんなに贈与を省こうと尽力したとしても、消し去ることは不可能なのかもしれないと思えてくる。私たちは例外なくこの恩恵を受けて生き延びた過去がある。

学校や社会の仕組みは管理しやすいように足並みをそろえることを強いる。
それはとても合理的であり、社会が大きくよどむことなく進んでいくことができるというのはこの仕組みがあるから。
でもその仕組みに馴染めなかったとしても自身を責める必要はないのだと思う。
仕組みが出来上がって、きっちりと進んでいくからこそ、自分ついてよく知る手立てを得やすい。
一定のリズムの中に身を置いて、自分はどおでリズムが乱れてしまいやすいのか、リズムが遅れてしまうのか、もしくは加速してしまうのか。
乱れること、ずれることは、渦中に身を置くと苦しいことだけど、そこからあなたらしさが際立って立ち上がってくる。
そのずれと、乱れと上手く折り合うことができたらとても心地よい日々を営むことができるのではないか。
一定のテンポを正確に刻み続け、子ども達一人ひとりの乱れやずれに丁寧に向き合ってあげられる先生という仕事も素敵だな。

他者に揺さぶられるのは辛さを伴うけれど、本当に必要なものは他者から贈与されることでしか得ることができないというジレンマ。

・贈与は商品価値・市場価値に回収できない「余剰」を帯びる。その余剰が唯一無二性、子有名を与える。その余剰分は自分で買い求めることができない。他者から贈られて初めて現れるもの。
“僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない。”

○直感に反する。正しく合理的であったとしても、それはわ私の直感に反することだった。

・他者からの評価、なんらかの称号を得ることがなくとも幸福でいられているのは嘘なのか?
他者からの贈与によってでしか、本当に大切なものを得られないとしたら、その大切なものは一体何なのか?幸福ではないのか。

何かを欲すること自体が私たちを乱す根本的な原因なのでは?
欲する乾きが愚かさを作るのではないか?

○リベラルな環境で育った。(自由な事)

・私たちは受け取った贈与に気づき、その負い目を引き受け、その負い目に突き動かされて、また別の人へと返礼として贈与を繋ぐことしかできないのです。贈与の流れに参入するには被贈与の気づきしかない。


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