どうか私を変えないで。

 
「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
それをするのは世界を変える為ではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」

凄く魅力的な言葉。

世界をまるっと変えることは難しいかもしれないけれど、
頑なに自分の生き方を守り抜いたり、
世界の流れを気にすることなく生きた人が、
翻って世界を変えるような存在になっているような気がしている。
 
「無意味」だからこそ軽やかに好き勝手生きてもいいのではないのではないか。思っている以上に心配も不安もいらないのかもしれない。

鈍感さはとても武器になると思っている。
でも、それは望んで手に入れることはできないし、私は私の敏感さを自覚しているからこそ、 世界の流れから自分を切り離すように守り抜く努力をし続ける必要があると思っている。
例えばSNSをしない。
スマホを手放す時間を設ける。
当たり前の働き方を自らに強要せずに、心地よい働き方を提供する。
当たり前の枠を手放すために、当たり前を学ぶ。問う。

世界は、社会は、色んな事を提供してくれているけど、それを受け取らずとも生きていける人でありたいと強く思う。

面白がり方を、楽しみ方を、満たし方を、自分の内側から見出すことができたらどんなにいいだろう。

自分を満たすものを外側に求めるのではなく、自ら生み出すことができたなら、優しく朗らかな空気をまとえる人になれるような気がしている。
だからこそその一歩として私は"製作"を続けていきたいと思っている。
絵を描くこと。文を綴ること。
そこに報酬が生じなくても、受け取り手がわずかであったとしても、待っている人もファンもいなくても。
それれはもちろんあった方が凄く嬉しいと思うけれど、私の製作の一番の目的はそこにない。
製作によって自分を満たしているのである。

「受け取る」だけでなく、自ら生み出すことを忘れずにいたい。

その満たし方を覚えてしまうと、生きることの不安が少し軽くなるような気がする。
今有している物質的なものを、もし仮に突然失ったとしても、幸せを得られるという静かな確信が私を守ってくれるような気がするのである。
失うことがないのが一番良いのだが、それはきっと誰にも予想はできないし、幸せの条件は最低限の方がいいような気がしている。
 
私自身、元々ミニマムな生活が凄く心地よいものだと知っていたが、それがもう一つ深まったのが21歳の頃ヨガ資格取得の為、1カ月の留学をしたときのこと。
更に私の人生の所有欲というものがもうひとつ軽やかになり、洗練されたと感じる。
生活はとてもシンプルで、ヘルシーな少しの食事、新たな知識の学びと、ヨガのアーサナの特訓。
生活の拠点は1人一畳ほどのスペース。
施設のまわりは畑と海だけ。

休みの日も、日差しと心地よい風にあたるテラスのテーブルで持参した書籍を読んで思索を深め、ヨガのレッスンを受講して、そんなふうにして過ごした。

満たしたくて、でも、もがいてももがいても何か欠いているようで、必死にばたばた慌ただしく色んな事を詰め込んで生きていた自分が嘘のように、その1カ月の日々は溢れ出す感覚を味わうほどに満たされていたのである。
それまでの生活になにかプラスされたわけではなく、もはやマイナスの生活。
読書も、思索することも、学びも、軽やかな食事も、運動も、お日様も、心地いい風も、そこへ赴かずともずっと私の傍らにあったというのに。
なぜ気づくことができていなかったのだろう。
この留学によって自分の確かな「満ち」を感じることができた。

自分の器には、気を抜くと色んなものが流れ込んできて、でも器を正しいもので満たさない限りは、心からの「満ち」は感じることはできないということ。
正しいものが近くにあったとしても、まず余分なものを取り除くことをしなければ、器を満たすことはできないということ。

周りがどう、あなたがどう、社会がどう、ではなく、私にとっての器を満たす「正しい」をまずは明確にすること。
そして「取り除く」こと。これが意外と難しい。
 
これができるようになると、どんな激動の社会に身を置いたとしても、自分の在る場所はまるで凪のようなものになると思う。
自分のテンポを静かに、でも確かに、刻み続けていたいと思う。
世界というものは強い波のようなもので、気を抜くと私たちをいとも簡単にさらっていく。私たちを変えていく。
私たちは想像以上に柔く脆く簡単に変わってしまうから。

肩書、立場、収入、そういうものが移ろうと生活パターンや考え方も変わっていく人が多い。
消費社会に身をゆだねてはいけない。
自分好みの生き方を頑固に守り抜く強さを持つこと。
 
ホセムヒカさんが質素な暮らしを続けているということにも通じているような気がした。
「ムヒカさんが質素な生活を続けるのは質素でいることが目的というより汚れから自分を遠ざける為。」
汚れを指しているのが世界の流れなのだと思う。
「日本でも買い物を一切していない。そうしないと崩れてしまうことを知っているから。小さな一個で簡単に崩れてしまう。」


自分を律し規矩を持たせるということはまさに「世界を変える為ではなく、世界によって自分が変えられないようにするため」なのかもしれない。

ヨガのレッスンや講座を心豊かに毎日提供したい。
自分も毎日体を動かしたい。
いつもお気に入りのお洋服を着ていたい。
学び続けていたい。
どうか私を必要以上に変えないで、と願い、
でも願うだけではいけないと思うから、踏ん張って何が何でも守っていく、とここに誓う。
 
 
社会は、目まぐるしく変化して次々と魅力的な世界を教えてくれるけれど、「自分」の本質的な部分は驚くほどに変わらないような気がしている。
忙しない社会に合わせなくていい。
変わらない「自分」のあり方にいつでもフォーカスを向けていたいと思う。

立場が変わろうと、仕事が忙しくなろうと、私はお気に入りのお洋服を着て、髪をくるんと巻いて、爪を可愛くして、しっかりメイクをして、身体をたっぷり動かして、本を沢山読んで、イラストを描いて、文を発信して生きていく。

また、今抱いているそういうこと条件にも柔軟に向き合い、点検する癖をつける。


方法に固執せずに、方法がずれていても間違っていたとしても、同様の効果を得ることができて同じ気持ちを得ることができたらいいのではないかと思う。

「本物の父親になることができなくても、良き父親でいることはできるんじゃないか」
「弁護士にはなれなかったけど、誰かを言葉で守り倒すことはできるんじゃないか」
「翻訳家になれなかったけど、言いにくいことを言うことはできるんじゃないか」
「恋人にはなれなかったけど、最高の悪友になることはできるんじゃないか」
「家族になれなかったけど、同じ時代に生き続けることはできるんじゃないか」
「何者かにはなれなかったけど、もし目の前に困った人がいたなら、すぐにでも手を差し伸べることくらいはできるんじゃないか」

私の大好きな言葉。
代替え案をいつでも沢山持っていたい。
固執せずに軽やかにいこう。

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