見出し画像

#18 コミュニケーションの鍵は「弱さ」にある~岡田美智男『〈弱いロボット〉の思考』より~|学校づくりのスパイス

 筆者は「コミュニケーション力」(コミュ力)という言葉がキライです。

 一般に「コミュ力」があるとされる人のイメージというと、初めての相手に対してもハキハキと応対でき、社交的で活発な人というところでしょうか。逆に内向的で、自己表現に躊躇するような人は「コミュ力」が低いと呼ばれるのかもしれません。

 けれどもちょっと考えてみてください。コミュニケーションとはそもそも関係のうえに成り立つもので、相手や集団によって望ましいコミュニケーションも当然異なります。

 一方で「○○力」とは個人の内側にある能力や性質を表現する言葉です。だから「コミュ力」という言葉を使えば、必然的に「コミュ力」が高い人と低い人が生まれます。少数派のコミュニケーション・スタイルを持つ人に対して「コミュ力が低い」というラベルを貼るとき、その言い方は多数派のコミュニケーション・スタイルを持つ人こそが「正統」であり、少数派のコミュニケーション・スタイルを持つ人は「異端」である、というメッセージを言外に発していることになるのではないでしょうか。

 しかし実際、お互いに一言も話さなくとも通じ合う人間関係だってあります。逆にどんなに「コミュ力」なるものに自信のある人であっても、サルの社会ではそれこそ、「サル以下のコミュ力」しか発揮できないのではないでしょうか。

 こうしたコミュニケーションの相互性という問題について「ロボット開発」というユニークな角度からアプローチしているのが今回取り上げる岡田美智男氏の『〈弱いロボット〉の思考――わたし・身体・コミュニケーション』(講談社、2017年)です。今回はこの本をもとに、教育における「コミュニケーション」のあり方について考えたいと思います。

〈弱いロボット〉とは

 本書で紹介されているのはさまざまな意味で「弱いロボット」たちですが、それは力や技術力が弱いということではありません。機能的に自己完結できない不完全さを残している、という意味での「弱さ」です。

 たとえば岡田氏の開発したロボットの一つである〈ゴミ箱ロボット〉は、文字どおりゴミ箱の形をしていて、人前に近づいていって腰を軽く屈めるような仕草をするそうです。するとそれを見た人が放っておけなくなってゴミを入れてあげたくなり、結果的にゴミが回収されるという発想です。この本には次のようなエピソードが記されています。「ゴミを手にした小さな子どもがヨタヨタしながら近づいてきて、それを投げ入れる。そうしてロボットからの反応に『してやったり……』と満足そうな笑顔を母親に向けながら帰って行く」(197頁)。

 さてこの〈ゴミ箱ロボット〉、人間の仕事を代替するための機械としては、はなはだ不完全ですが、人をしてコミュニケーションへと駆り立てるという、現在製品化されている掃除ロボットにはない機能を持っています。

 本書で紹介されているのは、こうした不完全さをあえて残した愛らしいロボットたちですが、その背景に透けて見えるのが次のようなコミュニケーションのとらえ方です。
 「身体にまつわる〈不完全さ〉、つまり〈弱さ〉が周囲との関わりへと駆り立てていたのだろう。その〈不完全さ〉や〈弱さ〉を周りとの調整の中で補っていくことも、ひとつのコミュニケーションの事態といえるのだ」(89頁)。

 コミュニケーションの本質は人間同士の相互浸透であり、相互浸透が起こるためには自分自身のなかに、相手がそこに入り込んでくる余地としての「弱さ」を持っている必要があります。本書の「弱いロボット」の発想から聞こえてくるのはそんなメッセージです。

〈弱いロボット〉の思考

岡田美智男『〈弱いロボット〉の思考――わたし・身体・コミュニケーション』講談社

「主体性」の罠

 話は変わりますが、最近の大手通販サイトのリコメンドサービスは相当に進化してきました。書籍でも衣料品でもその他の商品でも、ちょっと購買意欲をそそられるようなものをスクリーンに登場させるようになりました。そしてもちろん、消費者はこれらを「主体的」に選んで購入するのです。

 けれども本書の視点からすると、こうしたサービスは人を幸せにするのとは逆の結果をもたらす可能性もあります。というのも、そうした行為に映し出されるのは、過去の経験に基づいて選好のままに消費行動をする機械的な自分だからです。

 同じことが、教育についても言えるのではないでしょうか。「主体性」の名のもとに、子どもの選好に迎合していくような教育は本当に子どもを幸福にするでしょうか? むしろ、このような教育のあり方は、子どもの成長のプロセスを自己完結されたものにしてしまう可能性があるのではないでしょうか?

 さまざまな理由で教員が攻撃されるリスクが高まっている今日、「クレームやバッシングが怖くて厳しく指導できない」と感じている教員は少なくないはずです。また児童・生徒同士の関係においても、お互いに傷つくのを恐がり、それを回避するようになってきている気がします。

 もちろん、自分の欲望を満たすために人を利用するような傷つけ方は論外です。けれどもこの本が問題提起しているように、人と関係するということは、自分の「弱さ」に相手が介入してくるということであるとすると、深く人と関係しようとすればするほど、その関係によって傷つくリスクも高まることになります。自分が全く傷つかない関係性を望むなら、そのときは他者との相互浸透をあきらめるしかありません。

 すべてが自分の思いどおりになるような人生ほど貧しいものはありません。そして生活が自動化され、人間関係が「整理」されてくるほどにそのリスクは高まるはずです。そんな当たり前のことをあらためて考えさせてくれるのが本書なのではないかと思います。

【Tips】
▼この本で紹介されているロボットの写真や動画も公開されています。https://type.jp/et/feature/3055/

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?