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幸せになろうとするな。

幸せになろうとするな。

こんなことを言うと
意識高い系の方々に怒られるだろうか。

これは、少し疲れた朝に
なんとなく思考の渦の中で生まれた言葉。

また心が蝕まれてきたのかと一瞬思ったが、
なぜかもう少しその言葉の奥を覗きたくなった。


なぜ幸せの追求を否定するのだろうか?
そもそも幸せってなんだ?
この言葉の『幸せ』という意味はなに?


人は誰しもが幸福に至りたいと願う。
当然で自然な考え方。

でもいったいどれほどの人が
その幸福の正体を把握しているのだろう。

もちろん、
決まった『かたち』があるわけではなく
人によってきっとその人なりの幸せが
あるはず。

でもなにがどうなってどうすれば
その人は幸せになるのだろう。

では、その人が想い描いている
その不確かな予想や願望である
『しあわせ』を手に入れたとして、
本当に幸福になれる確証はあるのだろうか。

あなたの想い描く『しあわせ』は
ほんとうに幸せなの?


実は、ぼくには想い描く『しあわせ』が無い。

漠然と想い描く裕福な光景や
欲望を満たしている状況に
羨望することはあっても、
それを手にすることは
あくまで願望の達成であって、
幸福になることとは違うのだと
思ってしまう。

瞬間的に喜びはするだろうが、
永続的な満足には繋がらない。

おいしいケーキを食べたら幸せ。

もちろんそうだがそれを続けることは
幸せではないはず。
(ちなみにぼくはチーズケーキが好きです。)

たとえばぼくが身に余るほどの財を手に入れ
自分を慕い、自身の全てを服従に捧げた
存在に囲まれて何不自由なく
生きていけたとしよう。

構図としてはとてもしあわせなことだろう。


でもそれがほんとうにしあわせなのかは
わかるはずもない。

もしそれがぼくにとって
絶対しあわせだと確定されたなら、
それ以外ではしあわせになれないの?

そのしあわせに到底及ぶような人間じゃないと
そうわかった時、ぼくはどうなる?

息絶えるまでその絶望を抱えるの?


そんなのはいやだ。
そんな幻のようなものに
執着しながら追い求め続けるのは
しんどいよ。

まるで
しあわせになるために
幸せを捨てながら
絶望の中を歩いてるみたい、、、


未来は不確かだ。
ならばしあわせな未来も当然不確かなのだろう。

いまは確かにしあわせじゃないと
感じることはあるかもしれない。

でもしあわせは必ずしも
未来にしかないわけではない。

でもよくわかりもしない
しあわせの空想に
固執していては、
それこそほんとうのしあわせにさえ
気付けなくなる。

もしかしたらその兆しが
『今』、
すぐそばにあるかもしれない。

未来の幸せだって
今の自分から繋がっていくんだから。

だから自分のしあわせに
確信がもてないなら、
まだよくわからないなら、
無理して幸せになろうとしなくていい。

幸せになる保証がないのならば、
同じように不幸になる確証もないのだから。

ゆっくりまわりを見渡しながら
歩けばいいと思う。


という、
なんとも煮え切らない結論を出してみた!

ふはははは!!

可能な限り、、、卑猥なことに使わせていただきます!(>_<)