見出し画像

香港 戦争の記憶の伝承に挑む⑤「言語学習を通じた相互理解が平和のカギ」侯清儀さん 海浜文化導賞会主席・香港歴史文化研究会理事

香港で30年にわたり日本語教育に携わってきた侯清儀さんは、香港と日本の交流史の研究や市民への積極的な伝承活動で知られる。流暢な日本語だけでなく、柔和な笑顔と穏やかな語り口が印象的だ。活動の原動力となっているのは何なのか、話を聞いた。

ーー生い立ちについて教えてください。
わたしはフィリピン華僑を背景に持つ閩南(中国福建省南部の呼称)の僑眷(きょうけん、同国内に居住する華僑の家族)です。閩南人は16世紀の明朝時代に福建からフィリピンに渡りました。華僑というとお金持ちをイメージする人もいるかもしれませんが、それは誤解です。大多数は貧しかったです。わたしの家族も例外ではありません。

1930年代に漁師をしていた父は、まだ12、13歳でしたが、福建からフィリピンのマニラに渡ります。その後、故郷である福建の泉州に戻って、母とお見合い結婚をしました。わたしは3人兄弟の末っ子で、15歳上の兄と8歳上の姉がいますが、家では皆、福建語を話していました。学校に通えず、文字も読めなかった父は、わたしが中学生の時にマニラで亡くなりました。62歳でした。

3歳で香港へ「密航」

わたしの香港生活は「密入国者」として始まりました。3歳の時にマカオ経由で香港に入りました。中国本土から陸路や海を泳いで香港に来た他の多くの中国出身者とは異なります。

話によると、1950年代後半に中国政府の対海外華僑政策に大きな転換があって、該当申請者に「往来港澳通行証」(※注1)が発行され、1家族に付き3人までの出国が認められました。3人だけという決まりだったので、母と姉、わたしが福建からマカオ経由で香港に向かうことになりました。香港へ直接行かなかったのは1950年代初めに香港政府が中国本土との境界を封鎖したためです。

泉州から廈門(アモイ)を経て、広東省の潮州、広州、珠海へ、さらにポルトガル領マカオへ入り、その日の夜に仲介人の案内で英領香港行きの漁船に乗りました。船長や仲介人を除くとわたしたち家族のほかに4家族が乗っていましたから、合計15人ですね。誰も話をすることなく、静かに乗っていたそうです。

4時間船に揺られて着いたのは香港島東部の筲箕湾でした。当時、中国本土から香港への密入国は一括で料金を事前に支払えば仲介人が最後まで手配してくれる仕組みがあって、これを利用したそうです。いくつかルートがあり、そのうちの一つでした。到着後はトラム(路面電車)に乗って、親戚が住む北角(ノースポイント)に移動しました。

香港に到着した時のことははっきり覚えていませんが、仲介人に抱かれながらトラムに乗りました。今から思うと、車内で初めて電気の明かりを見たという記憶がぼんやり残っています。福建の田舎では電気が通っていないところで暮らし、日が落ちれば寝るだけという生活をしていたそうなので。

※注1:往来港澳通行証は当時、中国当局が出国のみ認める旅券として発行したもので、所持していても英領香港への入国は認められず、入国審査が別途必要だった。1951年に中国本土と香港間の国境が封鎖された後、境界と出入国の管理が厳格となったことから、やむを得ずマカオ経由で香港へ密航という手段をとった往来港澳通行証の所持者も多かった。

現在の北角=2023年8月、筆者撮影

「小上海」だった北角

親戚宅に身を寄せてから1週間ほどで、北角のなかで親戚が見つけてきた貸家に引っ越しました。一つの部屋が板で仕切られ、4畳半ほどの小さい部屋が五つあったのですが、そのうちの一部屋が我が家でした。大家さん以外に、同じような境遇の、わたしたち家族を含む5家族(合計約20人)が暮らしていました。トイレやシャワー、台所は共同でしたが、誰かがもめたり喧嘩したりするのを一度も見たことがありませんでした。

中国では子どものしつけが厳しく、鞭打ちのような体罰も日常的に行われていた時代だったのですが、親が子どもを叱責しているのを聞いた隣人が「まあまあ」と止めに入る。逆にその隣人が自分の子どもを激しく叱りつけているのに気が付いた母や他の隣人が今度はなだめに入るといったような、まるで昭和30年代の東京の下町を舞台にした漫画「3丁目の夕日」のような人情や人とのつながりがありました。

北角は今でこそ、「小福建」と言われるほど福建省出身者が多いですが、当時は「小上海」と呼ばれ上海出身者が多かったのですよ。こうした環境のなかで、北角の蘇浙幼稚園から蘇浙小学校に入り、卒業します。大家さんが小学校への入学を勧めてくれ、申し込みに行ってくれたのでした。学校に通うきっかけをつくってくれたことに、今でもとても感謝しています。学校の授業は全て国語(標準中国語、現在の普通話)でした。

父が亡くなった後、フィリピンに住む母の弟(叔父)が生活費を出してくれてForm 7(英国式の教育制度下で日本の高校に相当)を修了することができました。大学に受からなかったので、養和病院に事務職員として就職しました。

現在の北角=2023年8月、筆者撮影

ーー最初の記憶の中の日本とは何でしたか。

抗日戦争(日中戦争)です。小学校の時に香港で漫画や教材、新聞、映画を通じて日本を知るようになりました。香港の漫画「財叔」(作者:許冠文)や、中国映画の「地雷戦」や「遊撃小英雄」などを見ました。いずれも旧日本軍と抗日遊撃隊(ゲリラ部隊)との戦いを題材にしています。教科書で「南京大虐殺」を知った時には驚き、心が震えました。わたしの母は戦後も、戦争について何も語りませんでした。

小学校高学年になり、漫画など日本の文化と接するようになりました。手塚治虫の「小飛侠阿童木」(ASTRO BOY=邦題・鉄腕アトム)や「怪医秦博士」(同・ブラックジャック)などを読みました。ただ、その頃はそれが日本のものだとは感じていませんでしたね。

初級中学生になって、俳優の竹脇無我さんや栗原小巻さんが出演した「二人の世界」やスポ根ものの「サインはV」といった日本の人気ドラマが香港でも放送され、日本人の生活を知るようになりました。派手さはないものの、テレビや冷蔵庫など家電製品がそろっていて、いつか自分もそんな暮らしをしてみたいと憧れるようになりました 。

当時、(香港島の繁華街である)銅鑼湾(コーズウェイベイ)に日系デパート「大丸」(※注2)があったのですが、わたしは小学校を卒業するまで入ったことがありませんでした。

※注2:大丸は香港初の日系デパートだった。1960年開業、1998年閉店。

香港の抗日ゲリラ漫画「財叔」

きっかけはプラモデル

ーー日本語を本格的に学ぼうと思ったきっかけを教えてください。

中学生時代からプラモデルづくりに熱中し、戦闘機や戦艦の模型などを買っては組み立てるようになりました。タミヤ(静岡市)製のプラモデルもいくつも作りましたよ。

こうしたなかで1981年に、香港の環球模型有限公司(筆者注:プラモデル・玩具販売で地元最大手)の社長が声をかけてくれ、日本の模型メーカーの長谷川製作所(現ハセガワ、静岡市)が香港で主催する展示会の準備に関わる機会を得ました。当時、日本の模型メーカーの製品は質が高く、優良だと評判になっていました。

設営準備の際、長谷川製作所の重役たちが頭に鉢巻をしながら指示を出したり、こまごまと動き回ったりしていたのを覚えています。日本人の仕事に対する姿勢や物事への取り組み方を間近で見て、すっかり感銘を受けたわたしは日本語をしっかり学ぼうと決意しました。日本人から学ぶべきことがたくさんあると考えたのでした。

「読解力向上のススメ」

ーー香港日本文化協会の日本語講座(前身は在香港日本国総領事館文化部が創設した日本語講座)で、日本語教師として香港の人々に約30年日本語を教えてこられたご経験があります。これまで大事にされてきたことは何ですか。

1984年に在香港日本国総領事館の日本語講座に入学し、87年に国際交流基金の海外日本語教師長期研修プログラムに参加するチャンスに恵まれて、東京に派遣されました。さまざまな国の人が参加し、同じ宿舎で暮らしていました。授業は月〜金曜の午前8時から午後5時までと詰まっていて、夕食のあと、さらに午後9時まで実習を続けるといった生活でしたが、充実していました。88年4月から総領事館の日本語講座の教師として採用されました。

総領事館の日本語講座は、香港での日本語教育への普及貢献度が大きかったと思います(2001年1月に香港日本文化協会に運営主体を移管)。生徒の質も高いと評価されていました。最盛期は2010年で、1日当たりの生徒数は平均300人でした。

日本語教育の仕事に携わってから、日本語の読解力をきちんと備えているということがいかに重要であるかを身に染みて感じるようになりました。過去と現在の日本を正しく理解する必要があるためです。単純に見聞きしたポップカルチャーに触れるだけでは、日本に対して主観的で一面的、かつ歪んだ誤解を抱きやすくなるでしょう。

日本語の読解力があれば、細やかな描写の小説など文字媒体を通して、リアルな日本社会や日本人の生活、考え方に一段と迫り、洞察が得られるようになります。

戦前と戦後、切り離せない港日関係 

ーー19世紀後半から戦前までの香港と日本の関係を伝える取り組みを続けていらっしゃいます。関心を持たれたのはなぜですか。

私を含む一般の中国人は日本の過去の歴史について中国侵略と太平洋戦争勃発に焦点を当てがちですが、マクロな歴史的観点で見れば、日本の明治維新と切っても切り離せない背景があるためです。一方で(戦前の)日本の庶民の生活、特に海外で生計を立てようとした日本人について触れられることはほとんどなかったでしょう。

陳湛頣先生が著した「日本人與香港ーー十九世紀見聞錄」を読み、香港と日本間の初期の関係に一層興味を持つようになりました。 2014年に(筲箕湾にある)香港海防博物館の説明員になったことを機に、日本占領期の香港の歴史をさらに掘り下げるとともに、戦前の港日関係について深く研究し始めました。これら二つの時期は必然的な相関性があり、切り離せないと考えたからです。

「見微知著、防微杜漸」(わずかな手掛かりから物事の方向性や本質を判断し、悪事や災いが大きくならないうちに取り除いておかないと後々面倒なことになる)です。歴史的な過ちを二度と繰り返さないことが、わたしの心からの願いです。

「からゆきさん」が伝えてくれるもの

ーー香港の「からゆきさん」や日本人墓地について取り上げようと思った理由は何ですか。

明治初期の日本の庶民の生活の苦しみや辛さがどれほどであったかを、現代の多くの中国人は知りません。「からゆきさん」はもともと、生計を立てるために(自発的に)海外へ赴いた出稼ぎ労働者を指しますが、日本の人身売買業者や仲介業者に誘われたり、騙されたりして連れて来られた日本の農村女性もいました。彼女たちの体で利益を得ようとしたのです。

「からゆきさん」は国が貴重な外貨を稼ぐため、また、家族の生活を少しでも良くするために重大な犠牲を払った人たちでした。非常に驚き、深く考えさせられました。

「からゆきさん」の出現は、日本の宗教や政治、貿易といった多くの要素も絡んでいて、初期の港日関係研究の入り口となっています。香港島・跑馬地(ハッピーバレー)の「日本人墓地」(筆者注:香港墳場の一角の総称)には、こうした多くの不幸な日本人女性が埋葬されています。

日本人墓地にはさまざまな業種の日本人が埋葬されていますが、彼らの経歴は初期の香港日本社会の縮図であり、150年前の香港の歴史を理解する鏡ともなっています。市民や学生さんを帯同し、墓地を実際に見てもらうことは、明確な教育効果と意義があると考えています。

跑馬地の日本人墓地に立つ萬霊塔=2023年8月、筆者撮影

戦争の犠牲者は一般庶民

ーー香港でも、立場や背景、年齢などの違いで程度の差こそあれ、日本占領期や抗日戦争が忘れられない記憶の一つとして共有されていると思います。過去の日本との戦争について、どのように考えていますか。

日本の侵略を受けた中国や香港、東南アジア諸国の一般市民は皆、戦争の犠牲者です。加害者は当時の日本の統治者や軍人でした。(日本側に加担して)共犯者と見なされた一般庶民も結局は戦争の犠牲者です。

人類の歩みは戦争史であり、今後も変わらないでしょう。過去の不幸を変えることはできませんが、全ての人、特に戦争を経験していない若い人たちには、歴史の実相を客観的に理解し、人間の残酷な一面を勇敢に暴き、そこからも深い教訓を汲み取って、戦争が起きないようなるべく阻止したり遅らせたりしてもらいたいです。

わたしたちの次の世代は、いかなる理由であろうと戦時に人道的な罪を犯した人を厳罰に処すべきだと認識する必要があるでしょう。権力者やその追随者が政治的な理由から戦争犯罪や歴史的事実を意図的に隠蔽したり、誤解を生ませたり、軽視したりする行為は、若い世代に害を及ぼすことになり得るため、非難されるべきです。

ーー長く香港と日本をつなぐ仕事をされています。今の日本人や香港の人、次の世代に一番伝えたいことは何ですか。

中国と日本、香港と日本の人々、特に若い世代にお互いの歴史や文化的な背景をもっと理解してもらいたいと切に願っています。マスメディアの情報に安易に流されてはいけません。若い人が相手の言語を学ぶことを通じて、それぞれの共通点や相違点を比較・観察し、考えることが真の相互理解につながるはずです。そしてこれこそが、戦争を防ぎ、平和を促すカギになるでしょう。

(見出しの写真は、跑馬地にある日本人墓地の一角)

《略歴》 侯清儀(Hau Ching Yee)
1956年福建省生まれ。3歳の時に家族と香港に移住。高校卒業後、病院勤務を経て、1988年4月より在香港日本国総領事館運営の日本語講座(現在は香港日本文化協会に移管)で約30年日本語教育に従事。在職中に香港理工大学で修士号取得。2014年に副校長に就任、2018年に退職。現在、海浜文化導賞会主席、香港歴史文化研究会理事、香港旅游発展局HK PALメンバー、香港海防博物館、孫中山記念館の説明員などを務める。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?