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『義経』 「出る杭は打たれる」軍事的天才と嫉妬に燃える鎌倉武士団


 今年は司馬遼太郎生誕100周年ということで、『義経』について書きます。

 遥か昔から続いてる権力闘争。政治というイス取りゲームで追い落とされた人に、心情的に味方してしまうことを「判官びいき」と言います。その由来は、源義経の官名である判官からでした。
 日々のニュースを聞いたり『義経』を読んでいると、時代が変わって科学技術が進歩しても、その国に住む人の気質や情は、根本的には同じなのかなと思いました。
 義経は、父親を平家に殺され、京都近郊の寺に身を寄せて暮らしていました。でも、いつ平家に命を狙われるかわからないため、身分を隠し農家の手伝いをして食いつなぎ、東北方面へ逃げて行きます。いつかは平家に復讐することを心に誓いながら。

 義経は、この人こそと思えば親愛の情を深く持つことがあり、またそれがために人からも愛情を受けやすい人間性でした。兄である源頼朝に会えば、「兄殿〜」と忠誠心を捧げ役に立とうと奮戦しました。頼朝も、そんな弟の義経を心強く想い信頼します。

 義経は16歳で奥州藤原氏に保護を求めて逃げてきました。源の血を受け継ぐ、九郎義経がなぜ奥州まで逃げてきたのか、60歳を過ぎた藤原秀衡はよく察っしていました。孤独な少年に、秀衡は初対面から心を隔てず、外で二人並びながら「歩こうか」と声をかけます。老人の優しさに義経は涙を溢れさせてしまうのでした。
 藤原秀衡は、義経に奥州藤原氏の勢力圏で一生を無事に終えることを勧めました。しかし時代の風雲が、軍事的天才の義経を鎌倉に呼び寄せてしまいます。そうとなれば秀衡は、義経に忠臣として仕える武人を与えてくれるのでした。
 義経は遂に入京して鎌倉源氏の旗を立てました。そこで静御前に会って、「静〜」と愛情を与えているのは良かったのですが、、。

 後白河法皇からの信頼を受け始めたことが、兄の頼朝の疑いを招いてしまいました。

 そして、義経は平家討伐のために奮戦すればするほど、味方のはずの鎌倉武士団から嫉妬されます。武士団の筆頭格、梶原景時は、鎌倉の頼朝に義経の悪口ばかりを報告しました。
 義経には、普通の人には見えない勝機が見えていたのかも知れません。凡庸な鎌倉武士団の意見を聞いていたら、勝てる戦に勝てなくなります。それで義経は、梶原景時等のことを全然認めず、独断で戦略を進めるのでした。

 結局、義経は平家を滅ぼすことができても、鎌倉武士団との隔たりによって、兄の頼朝との仲に亀裂をつくってしまいます。
ある時代に軍功をつくった人は、次の時代には追い落とされてしまうという、う〜ん。日本の男性の嫉妬深さが、そんな足の引っ張り合いをさせてるのでしょうか。いつの世でも男は難しいですね。

 



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