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「出川哲郎」と間違えたからといって人は死ぬんだっけ?

XのアカウントのDMが解放されていたので、そっとメールを送った。

「記事、楽しく拝見しました。クリエイターとなるべき部分がクエリエイターとなっていましたので、差し出がましいとは思いつつご連絡させていただきました」

表だっての指摘ではなく謙虚に。取るに足らないことではありますが、という気持ちを忘れずに。

かつて新聞社で数年ほど校閲記者をやっていた。人が書いた記事の間違いを探し、指摘し、赤字を入れ、直す。マイナスをゼロにする仕事で、どうやってもプラスにはならない。何も生み出していないと気持ちがかなり落ちた時期もあった。

実際に文章を書く仕事をする人ならわかるだろうが、人間はかなり間違う。タイポと呼ばれる誤入力はよくあるし、「てにおは」の間違い、「ら抜き」も起こる。他人の記事で「出川哲朗」が「出川哲郎」と間違って書かれることも見る。

ネットではこうした間違いを見つけて「記者失格」などとあげつらうケースをよく見る。ヤフコメでは書いた人間の人格を否定するようなものを見た。

ただ一応仕事として校閲をやっていた身からすると「記者ならよくあることだよな」と思うし「ネットメディアはお金がないので校閲とか入ってないのかな」と執筆環境の悪さを心配したりする。実際ネットメディアにとっては校閲はもはや贅沢品で、編集者がその役割を担っていたりする。

専門の校閲の人間が複数で読んでいた記事でもそこをすり抜け、誤字が残ることも見てきた。鬼の首を取ったようにはしゃぐ人もいるかもしれないが、人の命を奪うような誤字脱字でなければ、そこまで気にすることではないというのが結論だ。

それは当時出会ったベテラン記者の存在も大きい。長年あるジャンルの取材を重ねたその人の話は常に面白く、取材をやめ校閲記者となってからも若手の記事の出来に愚痴りながら、口癖のように言っていた言葉があった。

「“木を見て森を見ず”になるな」

校閲が本当にチェックしなければいけないのは漢字の使い間違いなど小さい部分ではなく、事実誤認など記事として本当に見逃してはいけない部分だ。文字のチェックではなく、そうした内容のチェックに時間をかけろ。近視眼的になるな、というこの言葉はその後の人生でも気をつけている。

ネットメディアの登場により記事が大量に生まれ、そしてそれが無料で読めるようになったことで、多くの誤字脱字が生まれ、それを指摘する、時にあげつらう言葉も多く生まれた。

政治家や芸能人の失言に関する炎上も増えた。全体の文脈を見れば違った意味に聞こえる言葉も、その一部が切り取られ、失言とされ、糾弾される。森全体を燃やすのは大変だが、木一本を燃やすことは容易い。だからかSNSを見ていると、人はあえて近視眼的になっているようにも見える。怒りが局所的になっているのだ。そして木が燃えたら、次の燃やす木を探している。森を見れる人は少数派なのかもしれない。

アメリカ人はストレートな物言いをすると言われるが、ネガティブな指摘をするときには「いつも頑張ってくれてありがとう。あなたは非常に素晴らしいし、この資料はとっても良い出来だ。ただ一点だけ修正点があるとするならこの部分、ここを良くするともっと出来栄えがよくなると思う」とネガティブなことを言う際にはまずはポジティブな言葉を重ねるなどかなり遠回しにいうことが求められるという。

そうとは知らず、日本人がストレートにネガティブな指摘をすると相手のメンタルを傷つけ、時に問題になるそうだ。逆にいえば日本人はネガティブな言葉を直接ぶつけるのに抵抗がなさすぎるのかもしれない。

もし相手を傷つけるのが目的でないのなら、表だっての指摘ではなく謙虚に。取るに足らないことではありますが、という気持ちを忘れずにするのがよいだろう。ささいなことで相手を傷つけ、関係が壊れてしまっては仕方がない。

それこそ「“木を見て森を見ず”になるな」だ。

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