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幼い頃から

 罪悪感を感じたというのが、はじめて恋を知った日の感想だった。
 その日、はじめて床屋に入った。中学に入学するからと父に連れられて入った床屋にあなたがいた。
 決して手が届かないと思った。けれど、それと同時にふれてみたいとも思った。手を伸ばしたいというより手を引かれていく、そういった感覚だったのを覚えている。

 まだ髭の生えていない頬をカミソリで剃る前に、あなたがゆっくりと撫でていった。冷たい手だった。それから熱い蒸しタオルをかけられたけど、どうしていいのか分からないまま大人のふりをして過ごす。鏡の前であなたはクリームを泡立ていたから、安心してその姿を見ていたら急に振り返って驚いてしまう。
 近づくあなた。近づく顔と首元あたりに向けられた真剣な目。嗅いだことのない匂いがした。それがお化粧の匂いだと分かるのは、何年も先のこと。
 ゆっくりと目線が動く。もう罪悪感は話しかけてはこなかったけど、それ以前にぼくは分からなくなった。いま、何をしているかなんてどうでも良かった。

 くちびるが呼吸で動く。
 ブラウスの隙間と胸元。

――顔剃りが終わって椅子の背もたれが起こされると、大きな鏡のなかで目が合うから、恥ずかしかった。あなたはいじわるに微笑んでいるように見えてしまって、また悪いことをしている気持ちになった。そして、仕上がりを確かめるために這わせる手がこめかみの辺りを通り、耳をさわる。されるがままの緊張した時間。この時間は、月に一度だけ。

 床屋さんの仕上げは、いつもあなたがしてくれる。床屋のおじさんは髪の毛を切ったら交代して、店の隅の方で煙草を咥えていた。
 なぜか、ぼくは床屋のおじさんが好きじゃなかった。でも、煙草を吸いたいと思った。
 おねえさんは、煙草を吸う人が好きなんだと思った。

 何年たっても、顔を剃られるときは罪悪感を感じる。
 
 親から貰った床屋代をあなたに渡す。あなたはおつりと、「じっとしていられたから」とお駄賃をくれる。
 それから何年かして、お駄賃がポケットティッシュに変わった日。季節が変わるのを期待して、「髪型を変えたい」と伝えた。

 ぼくは、間違った人を好きになる。
 煙草を吸って、煙草を辞めて。
 あなたのしわが増えて。
 何十年経っても。

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