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冤罪と裁判官の主観による合理性

金曜ロードショーで『ショーシャンクの空に』(1994年)をやっていたので、数年ぶりに観た。

人気の高い作品というのが頷ける、相変わらずの名作だなと思った。

『ショーシャンクの空に』は、無実なのに終身刑になった元銀行家アンディが主人公となり、希望の大切さや友情の素晴らしさを教えてくれる。

また同時に、無実に関わらず人の自由を奪う冤罪というのは、とてつもなく罪が重いことだとも感じる。

冤罪を描いた映画

『ショーシャンクの空に』は、希望や友情がメイン・テーマの作品であり、より冤罪の悲惨さを描いた作品として『父の祈りを』(1993年)がある。

『父の祈りを』は、IRAによるロンドンでのテロ事件で、事件と無関係でありながら首謀者とされた青年と父親の姿が描かれる。刑務所での生活は15年に及び、その間、父は刑務所の中で無念のまま死に至る。

最終的に警察の捏造証拠などが明らかになり、無実が認められることになるが、この際、主人公の青年や友人たちは、白髪が混ざっていたり、老けたメイクがなされ、冤罪によって奪われた長い時間が印象的に描かれている

『ショーシャンクの空に』は、20年近くを刑務所で過ごしながら、主人公たちは、老いたメイクがなされていない。この点からして、『ショーシャンクの空に』は冤罪ではなく希望や友情を描くことに重きを置いており、『父の祈りを』は、国家権力によって、長きに渡り自由を奪われることの悲惨さを描くことに重点が置かれていることがわかる。

いずれにしても、無実でありながら人の自由を奪う冤罪の悲惨さを『父の祈りを』で知ることができる。

司法制度の問題を描いた映画

冤罪というのは、テロ事件や殺人事件のような重犯罪に限らず、日常的に起こり得ることを教えてくれる映画として、痴漢冤罪をテーマにした『それでもボクはやってない』(2007年)がある。

周防正行監督の『それでもボクはやってない』は、人質司法をはじめ日本の司法制度の問題を描き出した作品であるが、日本の司法に限らず”人が人を裁くことの難しさ”を教えてくれる作品でもある。

刑事、民事とも判決内容がニュースとなることは多いが、その判決内容を読むと、首をかしげることが多い。特に、判決文で多く用いられる「合理性」というキーワードに対して、疑問を抱く。

合理性とは、科学的で客観的で誰もが納得できることだと思っている。

しかし、判決における「合理性」は、科学的でなく客観的でなく、裁判官の主観に基づく合理性ということを多く感じる。

例えば、世間の注目を集めた、伊藤詩織と元TBS記者山口敬之による、性行為の合意の有無を争った民事裁判の判決にも、判決文の「合理性」に対して疑問を感じた。

東京地裁の第一審では、山口氏が伊藤氏をタクシーに乗せて宿泊先のホテルに行ったことについて、判決で以下のようにされている。

「寿司屋から恵比寿駅は徒歩でわずか5分程度の距離」であり、寿司屋を出た時点でタクシーに同乗させた点について「合理的な理由は認めがたい」とした。

弁護士ドットコムより

自分の感覚からすると、徒歩5分の距離でも急いでいればタクシーに頻繁に乗るし、また、酩酊状態の人がいれば、歩かせることなど難しく、そのためタクシーに乗せるのは普通に行われることと感じる。

それを「合理的な理由は認めがたい」と断定する根拠は、裁判官の主観でしかなく、客観性は感じられない。

実際、控訴審では、このタクシー乗車の部分について、第一審の判決内容は否定されている。

被控訴人を本件ホテルで休ませてから帰宅させるのが無難であると考えたとの控訴人の供述内容は、相応の合理性を有するものということができる

控訴審判決文より

伊藤氏と山口氏の間で性行為の合意があったかどうかは証拠がなく、双方の主張がまるで異なり、実際に性行為の合意があったかどうかは「第三者はわからない」が事実である。

その場合、双方の主張を科学的に客観的に合理的であるかどうかを見極める必要があるが、判決を裁判官という人間が行う以上、どうしたって裁判官の主観が入り込む。

裁判官は、優秀で公平で真実をジャッジする、だから「判決は真実」のような扱いをされるが、決してそんなことはない

それを言い表しているのが、『それでもボクはやってない』で、最後、判決を言い渡された主人公がつぶやく台詞だろう。

裁判は真実を明らかにする場所ではない。裁判は、被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められた証拠でとりあえず判断する場所にすぎないのだ。

人が人を裁く限界

裁判官も人間であり、そしてまた、裁判官組織に属する一員である。出世して最高裁判事になる人とそうでない人の間では給料で大きな差がある。

裁判官が意図せずとも、査定によい影響がありそうな判決に傾くこともあるだろうし、そのため、結果ありきで、その結果を導くために「裁判官の主観による合理性」という伝家の宝刀を用いた強引な判決も起こり得る。

そのため、近頃は、世間一般の常識とかけ離れたトンデモ判決に対して問題視されることも多々ある。

そういうトンデモ判決は、裁判官の資質であったり、裁判官組織の問題も多く要因があると思うが、それが、人が人を裁く限界ということなのだろうと思う。

そして、人が人を裁く限界によって、冤罪というあってはならない重大な罪を犯すこともある。そのため、人が人を裁いている以上、冤罪はなくならないと思う。

裁判官であったりスポーツの審判など、第三者による客観的な判定を行う職業というのは、公平性において限界がある、それが事実といえる。

人の主観を完全に取り除いた判定を行うべきことを人が行うのは限界があり、そういう意味で、AIによって単純労働の置き換えを進めるよりも、むしろ、裁判官やスポーツの審判をAIに変えていくことの方が、より優先度も重要度も高いことだと思う。

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