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noteはユーザに「手段を目的化」させるビジネス

若い頃、交際していた女性と食事をしている時、言われた言葉がある。

「あなたは、栄養素を口に運ぶ作業をしている」

これは、食事中に「美味しい」とも「不味い」とも言わず、ただ料理を口にパクパク放り込んで手短に食事を終わらせようとする、そういう食事の仕方に対する苦言だった。

鋭いことを言う人だなと思いつつ、以降、彼女との食事中は会話を行うようにした。

この言葉を思い出したのは、先日地上波でやっていた『七つの会議』(2019年)を観ていた時のことだった。

「手段の目的化」という悪

『七つの会議』原作の池井戸潤は、TBSドラマ『半沢直樹』をはじめ、映像化された作品も多い人気作家だが、彼の作品では「手段の目的化」が悪となることが多い。

『七つの会議』でいえば、電機メーカーにおいて、ネジの強度を偽装して品質基準を満たす行為が悪となる。

この場合、本来の目的は「安全な製品を作る」ことで、品質基準は安全な製品を作るための「手段」だった。しかし、本来「手段」だったはずの品質基準を満たすことが「目的」となって、その結果、データ偽装を行うことになる。

このように「手段の目的化」は、本来目的を達成するための手段だったことが、目的に入れ替わってしまうことを指す。それは愚かなこととされ、ビジネスにおいてはトップクラスの”悪しき行い”とされている。

そのため、上司や偉い人に対して「これ間違っているな」と思うことがあったら、「間違ってると思います」というより「それ、手段が目的化してませんか?」と言う方が一撃必殺の効果がある。

このように「手段の目的化」は、悪の象徴のような存在である。だから池井戸潤作品では「手段の目的化」が悪となり、それは非常にわかりやすい悪であり、だから憎らしいといった感情移入が起こりやすい。

しかし世の中においては、実際のところは「手段の目的化」で溢れかえっている

冒頭であげた「食べる」ということにしても、本来の目的は栄養素を摂って生命を維持することだろう。しかし、「美味しい料理」や「お洒落なお店」が人々を惹きつけ、または「食事中のマナー」や「食事中の会話」が必要とされる。

それらは本当は、手段である。目的ではない。しかし「美味しい料理」を食べることが目的となり、「食事中の会話」を楽しむことが目的になっている。

そして、それら「手段の目的化」のために、人々はお金を使う。

つまり「手段の目的化」はビジネスになる。「手段の目的化」はお金を生むのである。

「手段の目的化」が有効なのはほどほどの範囲

世の中には「手段の目的化」が溢れかえっているが、ビジネスという場において”手段の目的化は悪”が成り立つのは、正確には、ほどほどの範囲における業務遂行時において有効ということだと思っている。

ほどほどの範囲というのは、見る人が変われば手段と目的は入れ替わるからである。

例えば、「手段の目的化」でよく出されるような例でいうと、社内のコミュニケーションを活性化するため、レクリエーションとしてバーべーキューを行うとする。その企画や運営を総務部が行うとする。

「手段の目的化」が起こると、「社内のコミュニケーション活性化」という目的を忘れ、誰も盛り上がっていない(=活性化していない)のに、バーべーキューをつつがなく進行することが目的になる。

この場合、総務部にとっては「社内のコミュニケーション活性化」が本来の目的で、「バーべーキュー」は手段である。

しかし、会社の経営層からすると「利益を増やす」ことが目的で、「社内のコミュニケーション活性化」は手段になる。

そのため、「社内のコミュニケーション活性化」という総務部の目的は達成されていなくても、美味しい肉を食べてやる気が出て売上が上がったとか、バーべーキューで出るゴミを見てコスト意識が芽生えコスト削減につながったとか、「利益を増やす」という会社の目的からすると達成されている可能性もある。

さらには、社会の構成員としての企業という観点では、例えば自動車会社であれば「自動車を作って世の中を便利にする」ことが目的であり「利益を増やす」は手段である。

「目的」と「手段」は相対的

このように、手段と目的は、誰かにとっての目的は誰かにとっての手段になる。そういう相対的なものであり、絶対的なものではない。

「手段の目的化」がほどほどの範囲で有効というのは、総務部における目的と手段、会社における目的と手段、社会の構成員としての目的と手段というように、一定の範囲における目的と手段と位置付ける場合において有効という意味になる。

「手段の目的化」を考えることは価値がある

そしてまた、「手段の目的化」ということ自体を考えることは、悪いこととは思わない。

なぜなら、「手段の目的化」はビジネスになるからである。

目的と手段は絶対的ではないので、多角的に今自分がしていることの目的は何か?を突き詰めて考えていくと、現代社会はほとんどが「手段の目的化」になる。

グルメもそう、レジャーもそう、エンタメもそう、家電もそう。車もそう。そして、noteもそうである。「手段の目的化」ばかりである。「手段の目的化」がないと、実に不便で味気ない世の中といえる。

noteについていえば、作品を発表する、考えをまとめる、内省する等、人によってnoteを使う目的は様々あると思うが、しかし気がつくと、それら本来の目的を忘れ、noteに記事を投稿するという手段が目的化しやすい場所といえるだろう。

noteのビジネスについては以前書いたので、詳細には書かないけれども、noteは「手段が目的化」して盲目的にでもnoteを継続するユーザが多い方が、企業向けプロモーション・プラットフォームとしての機能が強化される。

そのためnoteは、ユーザが「手段の目的化」になるように、記事更新時にポップアップ表示される言葉や、noteに記事を更新し続けることを推奨するイベントなど、優しい言葉でユーザが「手段の目的化」になるよう誘導しているともいえる。

当然のことながら、ユーザに「手段の目的化」を誘導するのはnoteに限った話でなく、サービスと呼ばれるものの多くは、ユーザが「手段の目的化」になるように、もしくはなりやすいよう作られている。

だから世の中は「手段の目的化」で溢れている。

そのため、このようにビジネスを生む「手段の目的化」自体を考えることは、悪いこととは思わない。「手段の目的化」は悪いこととして思考停止する方が害悪と思う。

普段の生活においてであっても、何がどのように手段が目的化しているかを考える、もしくは、手段になっていることを目的化できないか考えることは、価値がある。

それが、新しい事業や新しいビジネスにつながる可能性がある。画期的なアイデアにつながる可能性がある。イノベーションとされることがあるかもしれない。

ほどほどの範囲において「手段の目的化」に陥るのは愚かである。しかし「手段の目的化」を考えることは、決して悪いことではないと思っている。

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