見出し画像

批判や非難を創作意欲に変換する

何かを作り発表すれば、ヒットや称賛されることもあるが、批判さらには非難を受けることもある。

批判・非難は、創作という活動においても、商品やサービスというビジネスにおいても、出来れば受けたくないものと思う。

しかし、世の中にはどんな批判・非難を受けてもそれを物ともしない鋼のメンタルを持っている人もいる。映画でいえば、ポール・バーホーベンという監督がそれに当たる。

非難されることを生きがいにする映画監督

『ロボコップ』(1987年)や『氷の微笑』(1992年)といった大ヒット作で知られるポール・バーホーベンのことを、「悪趣味」「下品」「変態」という人がいるが、それは違うだろうと思う。

それらは、スカトロをはじめ倒錯した性的嗜好を惜しげもなく映画で披露するジョン・ウォーターズのような人をいうのであり、ポール・バーホーベンが描く暴力やエロは、描写がねちっこく過激なだけで至ってノーマルである。

また、ポール・バーホーベンは暴力とエロを描く監督とされるが、これもまた少し違う。

ポール・バーホーベンはどういう映画監督なのかというと、現実から目を背けず、社会と人間の醜い部分を描くリアリストだと思っている。

映画は虚構の世界であり、大なり小なり道徳的もしくは教育的なメッセージが込められる。映画をみて「こんな風に生きたい」とか「主人公のようになりたい」と人生訓にする。

しかし、それらは虚構の世界だから描かれるストーリーであり主人公である。現実社会は甘くない。世の中善人だけではないし、どんな人も醜い部分を持っている。

そのような社会や人間の醜い部分、出来れば見ないでおきたいことをポール・バーホーベンは描く。しかも、過激にねちっこく描く。

暴力とエロは、社会と人間から切り離せないものである。だから必然的にポール・バーホーベンの作品では、暴力とエロが目立つ形になる。暴力とエロが先ではなく、社会そして人間を描くことが先にある。

このようにポール・バーホーベンは、社会や人間の醜悪な部分を描くので、結果、批判されるし非難もされる。特に、上品とか上流とされるような人々からすれば、許しがたい作品を撮る監督ということになる。

しかし、ポール・バーホーベンの場合、批判や非難の言葉は誉め言葉であり、生きがいのようなものだろうと感じる。醜悪な現実を鋭く描けば描くほど非難されるのは当然で、だからポール・バーホーベンにとって激しい非難の声は最大の誉め言葉と考えられる。

事実、毎年その年の最低映画を決めるラジー賞で、ポール・バーホーベン監督作『ショーガール』(1995年)が7部門制覇という偉業をやってのけた際、通常ラジー賞授賞式にやってくる受賞者はいないのだが、史上初めて、わざわざ授賞式にやってきてトロフィーを受け取り、スピーチまで披露したのがポール・バーホーベンである。

非難だらけのフィルモグラフィー

ポール・バーホーベンのフィルモグラフィーは非難の歴史でもある。

オランダで映画監督キャリアをスタートさせたポール・バーホーベンは、デビュー後二作目、激しい性描写の『ルトガー・ハウアー/危険な愛』(1973年)が大ヒット。その後も過激さが増していくことになり、その結果、やはり批判・非難も増していくようになる。そのためオランダでは映画が撮りづらくなり、ハリウッドへ渡る。

しかし、過激さはハリウッドでも変わらず、『ロボコップ』でヒーロー映画と見せかけて残虐な暴力描写を行い問題視され、『トータル・リコール』(1990年)で、目玉が飛び出たり、おばさんの顔が割れてシュワルツェネッガーの顔が出てきたり、ストーリーよりも強烈なシーンばかり目立つ作品で酷評され、『氷の微笑』でシャロン・ストーンにノーパン、ミニスカートで足を組み替えさせ上品な人々の眉をひそめさせ、『ショーガール』でまともな人を登場させず、ズルくて自己中な人間ばかりを描いて前述したようにラジー賞を大量受賞し、『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)で巨大昆虫と人間の戦争を描いて軍隊賛美と批判され(本人は軍隊批判をしたつもりなのだが)、さらに『インビジブル』(2000年)では、透明人間になったらやりたいことは、世界を救うことでも愛する人を守ることでもなく「盗撮と痴漢だろ!」というポール・バーホーベンの声が聞こえてくるような、予算をかけた最先端CGで、透明人間が女性の胸を揉み乳首をいじるシーンをねちっこく描写し「CGの無駄使い」と批判される。

批判されても非難されても、『ロボコップ』や『氷の微笑』のようにヒットしている時はよかったものの、ラジー賞を受賞した『ショーガール』辺りから雲行きが怪しくなる。

『スターシップ・トゥルーパーズ』も『インビジブル』も、批判や非難と同時にヒットからも見放され、とうとうハリウッドでも映画が撮りづらくなる。

そうして再び拠点を故郷オランダに戻し、ナチ占領下のオランダを舞台にした『ブラックブック』(2006年)を撮る。この作品は過激描写は抑えめで、とうとうバーホーベンも丸くなってしまったのかと思っていたら、『エル ELLE』(2016年)では、レイプされながら何事もなかったように過ごすメンタル強すぎの女性を主人公にドロドロの人間模様を描き、大絶賛を受ける。

『エル ELLE』でもやはり、登場する人物に共感できるような人間はいない。問題ある人物ばかりで、バーホーベンらしさの復活を印象づける作品でもあった。

この作品が絶賛されるところに、多様性を認める社会の変化ということを感じる。

抜群のクリエイティビティ

このように、バーホーベン作品は批判され非難ばかり受ける。それでも彼が映画を撮り続けられる理由は、抜群のクリエイティビティがあるこそだろうと思う。

バーホーベン監督の、映像でストーリーを伝える演出力は極めて高い。バーホーベン作品は、見ていて「ダルい」と思う時間がない。次から次へとテンポよくストーリーが展開し飽きさせることがない。

常にハイテンションで描かれるので、見ている側もハイテンションにならざるを得ない。気が付くと2時間が過ぎており「もう終わったの?」となるのである。

このように高い技術と実力があるからこそ、彼の映画にお金を出す人が現れる。そして、ヒットしたり批判されたり非難されたり、そして絶賛されたり、とにかく何を撮っても話題になる。

非難されることがわかっていながら映画製作という大金を出させるのだから、彼の実力が相当なのは確かである。バーホーベン本人も、自分の実力に絶対の自信があるからこそ、どんな非難を受けようとへっちゃらで、批判や非難を創作意欲へ転換できるのであろう。

全ての人に受け入れられる作品というのは存在しない。作り手の個性を出せば受け入れない人がいるのは当然となる。逆に、万人受けを狙えば最大公約数的になる。最大公約数的ということは、没個性となり、いいところどりの妥協ということになる。

バーホーベン作品を観ると、批判や非難を恐れてばかりいたら、個性的なものも独創的なものも生み出せないということを教えてくれる。

個性と万人受け、それらに折り合いをつけ、上手に妥協した最大公約数的昨品も魅力的である。

しかし、万人受けなど気にせず個性をさらけ出し、激しい非難を受ける作品も魅力がある。そんな非難を受ける作品ばかり作るポール・バーホーベンもやはり、魅力的である。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?