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「地域コミュニティ」を疑う

地域のつながりが大事。普段からあるコミュニティが必要だ、町のみんなで協力しよう。若者を育てよう。

わたしはそんな言葉を疑ってしまう。

町のお偉いさん(町会長とか公民館長)だけが行政と話すことができる。そのお偉いさんとつながりがない人は、発言権をもたない。お偉いさんから話を通さないと、地域のなかで生きていけない。そのために町内会に参加する。町内会では、ごみの管理、募金活動、清掃、など行政の下請け仕事をする。

これの、どこが地域コミュニティだろう。そんな擬似的な住民参加はしたくない。

地域コミュニティは、子どもを見守ってくれる。なにかたくさん料理を作ったら、田舎から果物が届いたら、おすそ分けする。災害のときは、みんなで助け合う。困っている、悩んでいる人がいたら、適切につなげてあげる。
そうしたもののために、たしかに絶対に必要なものだ。
でも、必要なものだからこそ、既得権益が生まれやすい。変化に敏感になる。古いしきたりに縛られてしまう。

えとみほさんが、宇都宮に若者の駆け込み寺を作る、と言って、少し揉めている。賃貸なんだから大家さんと不動産屋の了承が取れていれば、若者の駆け込み寺を作ることは何の問題もないだろう、それに対して何も聞いてないなんてツッコミを「外部」の人が言わないでほしい、ということらしい。

その町に住んでいる人と、外から来ていきなり家を借りて駆け込み寺を作る人のどちらが「外部の人」なんだろうとは思うけど、地域の偉い人に事前に話を通さないと何もできないのもやっぱりどこか閉鎖的で息苦しい。

実際のところ、周辺住民の了承もないところで駆け込み寺のようなシェアハウスを作っても、周辺からは奇異の目で見られ、すごく生きづらい居心地の悪い場所になるだけだと思う。
でも、その「生きづらい居心地の悪い場所」にしてしまっているのは、誰なんだろうか。

「地域」は、なにかと期待される場面が多い。だからといって、ボランティアでなんでもするわけじゃない。教育、福祉、アートや文化。何かを受け入れるとして、誰がそれらを維持するための負担をするかと言えば、そこに住んでいる人たちだ。そして、それはだいたい稼ぎに出ている人ではなくて、高齢者や主婦・主夫である。みんなそれぞれの生活があって、素人ながらもできることがあれば、と善意で協力して上手くやっている。そこにさらなる負担が加わるのだろうか。

部活動や子どもの見守り、放課後育成事業、どんどん地域を活用しよう!なんてことは本当はやめてほしい。地域が受け皿になって、という場合の「地域」って本当は誰なんですか。地域地域と言うけれど、本当に地域のこと見えてますか。行政のやるべき仕事を投げていませんか。

オンラインサロンのタダ働きみたいなのが騒がれているけれど、実際には世の中にはコミュニティのなかでタダ働きしている人が大勢いる。もちろん、コミュニティを円滑にすることで、自ら得られる利益もあるし、満足感や達成感もある。だけど、それが特定の人だけの権益につながってしまうのなら、組織として歪んでいるし、疑うべきだ。

オンラインサロンの件も、シェアハウスの件も、根っこは同じところにあるように思う。「善意」のコミュニティを疑う。それって、本当に「善意」ですか?


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