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生きる意味へのアクセス

こんにちは、Ledesoneのライター しんちゃんです。

今回は、ちょっと視点を広げてみます。障害を持ちつつ生きるということについて考えていくために、そしてその根底にある、誰もが持っているはずの生きる意味の追求について考えていきます。

全ての人の存在意義や生きる意味の追求という大きな視点で捉えていくことで障害という課題に対しての盲点を探すのです。

人が生きる意味や存在意義へ追求=アクセスしていく中で、障害を持っていることが、生きる意味や存在意義にどう影響しているのか、について大きな視点で捉えてみたいからです。

まず、以前、相模原の障害者施設で多くの方が元職員の凶行で犠牲になるという、悲しい事件がありました。

生きることはつらいー「人間」であるから

週刊現代・2016年11月19日更新記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50230)では貧困からくるに陥った若者による犯人への支持があったことが示唆されています。

実情はそうなのでしょう。

しかし、こうした他害にいたるような極端な外部への発散は少なくとも自殺と同様に避けるべきです。

もちろん、若者への経済的支援も必要です。

しかし、問題はそれだけでしょうか?

生きる意味を深く模索して苦しまない、辛い現状で感情の悶えを拒否してしまうことが根本問題なのではないでしょうか?

そして、単純に自らの物的欲求を満たすようなことだけで解決するという意識ではこの根本問題には向き合えないのではないでしょうか?

私などは自分だけが不幸ならば、自分だけが犠牲なればよく、周囲や相手を自ら手にかけるというのは相手の生きたいという意思を無視する行為であると思っています。相手が私を犠牲にして犯罪を犯してしまうようなら、相手の問題とも捉えています(アドラー心理学での課題の分離にしては極端ですが…)。

そう、実は自分の命さえ私たちは明日あるかさえわからないというのが実情なのですし、私たちの周りの誰かが自分に対して凶行に及んだ時、不幸にして他人の犠牲になるのです。

私たちは実は周囲に殺されない状況であるか、たまため周囲に凶行に及ぶ人がいないという運によるものか、もしくは周囲の都合上生かされているだけであるかもしれません。

これは極端な言い方ですが、私たちはその意味でも周囲に生かされているのです。生かされているとは、自然や森羅万象によって生かされているという壮大な意味合いだけではありません。

つまり、人間は個体では生かされているだけ。弱い存在なのです。

確かに優生思想で多人種を虐殺したり、障害者を間引いたりしてきたのは人類の文明でもあります。

また、その修羅場を避けるにあたり、物質的に欲望によって満たされていることでのみ、平和状態を保ったという歴史もあります。

しかし、それでは、私たちは本質上では獣と何の違いもありません。弱い存在を食らうだけですから。いえ獣以下でさえあるかもしれません。

実は、私たちはまだ本当の意味で「人間」と呼べるほどの高貴で崇高な存在にはなりきっていないのです。

私たちが人類史上で「人間」であったことは一度もないくらいなのです。

*「人間」が「」付きなのは、私たちが未完成の存在であるということの協調の意味です。

生きる意味へのアクセスを試行錯誤する試み=「人間」となること

ならば、生きる意味と問い続けるということ=アクセスすること=真の「人間」らしさを追求して完成に向かわせることでのみ、私たちはこうした凶行の発生を未然に防ぐことができるのではないかと思っています。

なぜなら、自分の存在意義を問い続けることを通して、人間が他人の存在意義を考えるに至るからです。そして、自他ともに肯定できないのです。

私は、そのようにして生きる意味へのアクセスすることこそ、真の「人間」らしさだと思います。

真の「人間」らしさとは、自他への肯定を確立することで得られると思います。

全ての存在に対してその存在意義を考えて、向き合うのが本当の「人間」のはずです。

それができなければ、経済的満足度という指標が満たされないとき、私たちは、時として犯罪者や獣になり下がります。

もちろん、飢えや貧困に陥らない、陥らせない、ということは絶対に大切です。

そして、それは仙人のようにカスミを食べて生きていくかのごとくではなく、「人間」らしくあることで飢えや貧困を防ぐ、防ぐことで「人間」らしくあるような解決を考えることです。

「人間」らしくない社会だから飢えや貧困と豊かさが混在しているのではないでしょうか?

生きる意味へのアクセス。

それは、障害の課題の根本問題であり、同時に私たちが人類の課題を克服して、「人間」らしくなる上で必要な試行錯誤なのです。

今回の課題の解決は?

障害の課題を追求する、解決するという試みは、私たちが「人間」としての完成を見るうえでの一つの重要な基準になる、と私は思っています。

今回の狙いは、生きる意味へアクセスする意思と試行錯誤をやっていかなければならないという提案なのです。

そうでなければ、物質的な幸福度を獣のように追い、その結果として満たされた者以外の者や犠牲になった者が貧困に陥り、満たされない故に起こるであろう今回のような悲惨な事件を繰り返すでしょう。

そして、貧困や不満を利用した思想誘導により人類史上繰り返してきたジェノサイド(大量虐殺)もさらに繰り返すことになるでしょう。

事件はとても重要な課題を提起していると思います。

いきなりディープなテーマでしたが、今回の課題を解決する方法こそ、生きる意味へのアクセス、つまり、自ら考え、試行錯誤して人生の意味をそれぞれが問い続けるという、大変な苦行なのです。

しかし、それができなければ根本的にどの障害の課題も薄っぺらな考えでしか語れないのです。

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