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エジプトのシャイマ、日本のわたし~鳥山純子『「私らしさ」の民族誌 現代エジプトの女性、格差、欲望』を読んで~

 中東・イスラーム世界の女性、特にムスリムの女性をめぐっては、長らく「抑圧された、選択の自由が奪われたかわいそうな女性たち」というステレオタイプなイメージがつきまとってきたが、今日では、こうした言説が歴史の考察を欠いた、また女性たちの多様性を捨象した単純な見方であることが指摘されるようになってきている。
 当該地域のムスリム女性をひとくくりにして「被害者」と決めつけることは、「道義的に正しい自分たちが、間違った世界にいる彼女たちを救うべきだ」という自画自賛に容易に結びつく。そうではなく、一人一人の女性たちの話をもっと丁寧に聞くべきだ。それによって彼女たちの生きる文脈が、私たちの世界や生活とはそれほどかけ離れていないことに気づいていくべきだ。そのような主張が、21世紀に、例えば文化人類学者ライラ・アブー・ルゴドによってなされるようになったのだ。

 アブー・ルゴドの主張は正しい。しかしそうは言っても、中東・イスラーム地域になじみのない人にとっては、一人一人のムスリム女性たちの声に耳を傾けるというのはなかなかハードルが高い上、そこから何を汲み取ればいいのか、検討もつかないというケースも多いだろう。
 このような問題意識に立った時、『「私らしさ」の民族誌 現代エジプトの女性、格差、欲望』(春風社、2022年)は読むべき一冊だ。文化人類学を専門とする著者が、2007年から2008年まで、エジプトの首都カイロのエリート私立学校(本書の中ではA校という表記になっている)で教員として働きつつ、同僚の3人の女性教員と話をし、観察した内容を、「民族誌」としてまとめた本である。

 著者の鳥山純子さんとは、以前、東京大学で不定期に開催していた中東映画研究会のスタッフとしてご一緒させていただいていた。このたび刊行された本書をお贈りくださり、拝読したところ大変に面白かったので、感想を書いてみたい。ただ、私は文化人類学を専門に勉強したわけではないので、アカデミックな書評ではなく、あくまで一読者の感想という形でしか書けないのだが。

☆☆☆

 本書は3部構成を取っており、それぞれの部で、鳥山さんが同僚として働いた3人の女性教員、20代で独身のシャイマ、既婚で子持ちのサラ、そして60代のリハーム校長の人となりを丁寧に解き明かそうとする。この3人は下層中産階級出身のシャイマ、上層中産階級出身のサラ、富裕層出身のリハーム校長という風に、出身階層も異なっていて、「女性教員=教育を受け社会進出を果たした女性」として単純にまとめられるような対象ではない。
 キャラクター的にも、成績優秀だったのに教員にしかなれず、それでも授業を工夫し、精一杯自分を磨こうとしているシャイマ、娘の教育のために教員をめざし、周囲からちやほやされることを求めるサラ、植民地時代の上流階級のソサエティ文化を再興しようとするリハーム校長という風に、三者三様、まるで違う。本書では、この3人のふるまいや発した言葉が、鳥山さんの観察と分析をもとに綴られている。それぞれにジレンマがあり、ドラマがあり、人生で実現したいものがある。読んでいて、これは良い脚本家がいたら一つの映画になりそうだなあと思った。
 
 私がこの中で一番興味を惹かれたのはシャイマである。シャイマは先にも述べたように下層中産階級の出身で、幼い頃から成績優秀ないわゆる優等生であったが、就職でつまずき、学校教員となったという経歴の持ち主だ。エジプトでは高学歴の青年が満足できる就職先が少なく、彼らが能力や給料を、いわば「搾取」される形で学校教員になるケースが多い。シャイマも最初に公立学校のアラビア語教員となり、その後アメリカ式教育プログラムを取り入れた私立学校であるA校に転職した。シャイマはそこで努力を重ね、アクティブ・ラーニングなども取り入れた授業を作っていき、それは生徒や保護者からの評判も良かったという。
 私がシャイマに興味を惹かれたのは、私自身が20代後半から20年間、私立の男子校で専任教員として働いた経験があったからかもしれない。私が働いた男子校には、いわゆるエリート層の子弟が多く、教員より生徒の方が社会階層が高いというケースもしばしば生じた。私自身、学校教員になりたいという夢をそれほど強く持っていたわけではなかったが、それでも教員になってみたら、やりがいを感じ、色々と授業を工夫していったという所もシャイマに似ている気がした。

 そして何より、シャイマがとてもアンビバレントな自己イメージを持っていること、そしてそれ故に押しだしが弱く、同僚や上司からの評価がそれほど高くないということが、とても人間らしく、一人の、等身大の女性として存在を感じられる理由だった。シャイマはエジプト国家が賞揚する「高学歴(=成功を約束された)女性」であり、かつ、アメリカ式教育を行うA校という、エジプト人の若者たちが求める欧米的な価値観とのつながり(本書では「コネクテッドネス」という用語が使われている)を感じられる環境で働いている。このことに誇りを抱く一方で、彼女は自分が社会的に価値ある存在とは確信できなかった。おそらくシャイマは、自分が教員にしかなれなかったのは自分がダメだったからだ、とどこか自分を責めていたのではないか。彼女が仕事のかたわら、外国語を再学習してスキルアップをはかっていたのは、まさにそのような気持ちの発露だとも考えられる。
 そしてこうした生真面目さを抱えたシャイマは、上司や保護者に対して強く主張したり、処世術を駆使したりすることができなかった。それ故に、彼女の努力にもかかわらず、周囲からの彼女の評価は高くなく、彼女は自らが真に求める「成功者」とはほど遠いステージにあり続けるしかなかったのだ。

 読んでいて、私自身にも思い当たることがたくさんあって、胸が痛くなった。もし鳥山さんが、私が高校教員をしていた時、私の勤務校で働きながら調査をしていたら、私についても同じようなことを書いたのではないかと思ったほどだ。
 文化人類学では、調査者が調査対象のコミュニティに一定期間近づき、聞き取り調査や観察・分析をして、その結果を研究成果としてまとめるのだろうが、本書の最大の特徴は、調査者と調査対象が「同僚」であったということだ。外部からやってきた調査者としてただ話を聞いたり観察したりするのと、同じ現場で一緒に責任をもって働きながらそれをやるのとでは、見えてくるものがおそらく全然違う。国は違えど学校教育現場の空気感を知っている私には、本書で語られるシャイマの姿は生々しく、リアルに感じられ、これは一緒に働かなければわからなかっただろうな、と思うことがしばしばだった。
 もちろん、それ故に、鳥山さん自身の職業観や教員観に叙述が引きずられてしまい、文化人類学の調査として客観性を欠くということもあるのかもしれない。そのあたりの匙加減は、私は文化人類学の勉強をしたことがないのでわからないが、中東・イスラーム世界に生きる一人の女性の姿を浮かび上がらせる試みとして、本書が非常に貴重な材料を提供してくれていることだけは間違いないと思う。

 現代の中産階級以上の女性たちは、衣食住が確保できて、教育も受けられている。人によっては安定した仕事もある。しかし、人間はそれで100%満足するというわけではなく、そこから先、「より価値のある人生」や「より自分らしい生き方」を模索しながら歩いて行く。その過程で、失敗や挫折を経験することもある。夢や希望を捨てる人もいれば、少し変形させて持ち続ける人もいる。一人一人、具体的な歩みは違うけれど、一人一人に「私らしさ」を求めての歩みがあるという点は、エジプトも日本も同じなのだ。本書を読んで、まさに、「エジプトの女性たちの生きる文脈が、私たちの世界や生活とはそれほどかけ離れていない」ということを実感できたように思う。

 しかしその一方で、彼女たちの個別の悩みは、現代エジプトの都市部に生きる者ならではのものであり、メークのこと、スカーフ(ヒジャーブ)のこと、夫婦関係のこと、キャリアのことなど、日本に生きる女性と重ならない部分もたくさんある。さらに、もし調査者が鳥山さんではなく、エジプト人研究者だったなら、あるいは、同僚として働くのではない、一般的な調査者だったなら、シャイマ、サラ、リハーム校長はまるで違う人間として描かれていたかもしれない、とも考えた。本書の中でも言及されているが、一人の人間には様々な顔があり、相手によって見せる顔が違うからだ。
 本書の帯には、「人のことなんてわからない!」と大きな文字で書いてある。本書を読んだ直後は、3人のエジプト人女性について何か「わかったつもり」になってしまっていた。しかし、後からじわじわと、安易に「わかったつもり」になるのは危険であり、それこそが相手を単純化することだという気もしてきた。鳥山さんはそんな風に、一歩離れた控えめな態度を思い起こさせてくれ、一人の人間に対する本当の敬意とは何かを考えさせてくれる。エジプトのシャイマ、日本のわたし。同じであって、同じでない。それを感じさせてくれるのが、本書の魅力ではないだろうか。

 本書は鳥山さんの博士論文が元になっており、現代エジプトの都市部における社会生活の変化について分析している箇所も多い。私自身がエジプト映画について学んでいることもあり、個人的にはそうした分析も面白かった。
 特に「コネクテッドネス」の議論は、最近見たエジプト大衆映画「アルーサティー(僕の花嫁)」(ムハンマド・バキール監督、2021年)が、若い男女の結婚の話なのに100%宗教色を排した、まさに欧米的な結婚に接続しようとしている映画で、視聴して驚いた矢先だったので、非常に興味深かった。ただ、現代エジプトについての知識が全くなくとも、本書の読書体験は充実したものになるに違いない。2007年から2008年にかけて世界の向こう側で生きていた3人の女性たちに、鳥山さんの目を通じて出会うという、ある種の冒険旅行に、多くの方に参加していただきたいと思う。

 それにしても、私も20年間、高校で勤務していた時、文化人類学を学んでいれば,同僚について色々と異なる視角で見ることができたかもしれない。私自身、(最後の方は少し増えたが)同僚のほとんどが男性という環境で、20代で担任を持った最初の女性教員として、色々な意味で得がたい経験をしていたのだが、それを分析するための切り口を持っていなかったために、苦しむことも多かった。当時の私に、この本を贈りたかったという気もする。

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