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教科書の図版が変更、その意図とは!?――「王の道」編

世界史講師の伊藤敏です。
(以下、冒頭はほぼテンプレ)

さて、2022年に高校社会科は大きな転換点を迎えました。
この年から、2018年に改訂された高等学校指導要領にもとづき、社会科の科目に大きな変更が生じたのです。

世界史における主な変更点は、

世界史A・世界史Bの廃止
⑵ 世界史Aと日本史Aに代わる「歴史総合」、世界史Bに代わる「世界史探究」の設置

です。
この措置にともない、当然ながら教科書も大幅な変更がなされます。

……今回テーマとするのは、図版それも地図です。
旧課程から変更があった図版、そこから見えるものとは……?

この記事では、「王の道」をテーマに、
図版の変更の意図について掘り下げていきます。

では、はじまりはじまり~



アケメネス朝の建国者・キュロス2世の旗印

1.「王の道」と図版の変更


まず、今回のテーマとなる「王の道」について見ていきましょう。

「王の道」は、前525年にオリエント世界を統一した、
ペルシア人(イラン系民族のひとつ)の国家・アケメネス朝が建設した幹線道路(国道)です。

よくある認識としては、「アケメネス朝の王宮が置かれたスサ(イラン南西部)から、アナトリア西部のサルデス(サルディス)までを結ぶ道」、と理解されていることが多いでしょう。


……とくに何てことないと、私も高を括っていたこの用語ですが、
問題は用語そのものではなく、図版にありました。

アケメネス朝の地図はほぼどの出版社の教科書にも掲載されており、
その地図には「王の道」のルートも当然のように示されています。

ここで従来の「B」と新課程の「探究」で、それぞれ示される「王の道」のルートを比較してみましょう。

すると……?


⇧「B」での「王の道」のルート
⇧「探究」での「王の道」のルート


あれ、なんか2本に増えてません???

……そう、これなんです。
厳密に言えば、スサ~サルデス間の複数のルートが記されるようになったのですね。

この複数ルートは、すでに一部の資料集などでも見られていましたが、
「『王の道』といえば一本道やろ!!」みたいな先入観ありきだと、ちょっと意表を突かれたかもしれません。



ヘロドトスの胸像、ローマ時代の模作

2.「王の道」――複数ルートの謎


「王の道」とは

では、「王の道」の複数ルートの謎に迫ってみましょう。

その前に、まずはそもそも「王の道」とは何なのか、概要からさらっていきます。
「王の道」は、アケメネス朝のダレイオス1世(位・前522~前486)が建設を命じたもので、
先ほどの説明にあったように幹線道路、それも国道です。

「国道」といっても、現在の日本に見られるそれとは性質がやや異なります。
わかりやすく英語を採り上げますが、「王の道」はRoyal Roadといい、
形容詞のroyalは「王の、王室の」という意味がありますが、この言葉には「人や物の所属・帰属が王/王室にある」というニュアンスがあります。

このため、「王の道」はアケメネス朝の君主はさることながら、
優先的にこの国道を使用するのは(王に属する)軍隊伝令です。
「王の道」を整備したことで、アケメネス朝は軍の派遣や地方の情報収集を効率的に遂行できるようになったのです。

「王の道」はスサからサルデスに至る約2500kmのものがありますが、
これはあくまでも「王の道」の一部であり、
また、先ほどの地図でも見たように、スサ~サルデス間だけでも複数のルートがあるのです。


複数ルートの理由とは

で、この複数ルートですが、
じゃあ今までの教科書のルートは何だったんだ? ということになりますよね。

実は「B」での「王の道」はヘロドトスの『歴史』の記述に基づいたものなのです。
ヘロドトスと言えば、ギリシアやオリエント各地を訪れ、
その見聞を書き記したのが、『歴史(ヒストリアイ)』です。

その情報量は目を見張るものがありますが、
一方でヘロドトスは伝説や神話の類も自著に収録しており
その記述は所々正確性に疑問を呈せざるを得ないものもあると言わざるを得ません。
ですが、長らく西洋の歴史学では、ヘロドトスの記述に基づいて古代史の再構築を行ってきたため、その影響たるや計り知れないものがあります。

では、「探究」で新たに記されたルートは一体何でしょうか?
ヘロドトスの記録が長らく用いられたもう一つの理由が、「他に十分な情報量を含んだ記録があまりなかった」ということも挙げられます。
史料の情報量に関しては、ヘロドトスのライヴァルが少なかったわけですね。
したがって、19世紀以降はヘロドトスの記録以外に、別のアプローチによる古代史の解明が進みます。
それが、考古学です。

シュリーマンやエヴァンズらに始まる考古学の発掘の成果の蓄積により、
様々な記録が裏付けられ、あるいは記録に記されているものとは違った実態などが明らかになってきました。
「探究」の「王の道」は考古学の発掘の成果が反映されたものであり、
より当時の実態に則したものとして、こちらが採用されたのだと考えられます。

……というわけで、「探究」ではヘロドトスの記述に代わって、考古学の成果が採用されたことが、図版変更の理由とみなせるでしょう。

しかし、だからこそ見えてくる新たな疑問が生じるのです……



エウクレイデスの肖像、ホセ・デ・リベーラ画(17世紀)

3.新たな疑問――最短ルート??


「幾何学に王道なし」

さて、ここで唐突ですが、こんな逸話を聞いたことがあるでしょうか?

時はヘレニズム時代

プトレマイオス朝エジプトの建国者プトレマイオス1世は、
学問を奨励した君主として知られ、首都アレクサンドリアムセイオンという総合学問施設を建設したほどです。
このプトレマイオス1世の治世のアレクサンドリアで活躍した数学者が、
幾何学を大成したエウクレイデス(ユークリッド)でした。

ある日、プトレマイオス1世は、エウクレイデスに、
「数学を学ぶのに、もっと簡単な方法はないものか?」と尋ねます。
これに対しエウクレイデスは、「幾何学に王道はないのです」と答えたと言います。
いわゆる、「学問に王道なし」という諺の由来ですね。

実は、ここで言及されている「王道」とは、他でもないアケメネス朝の「王の道」のことなのです。

ヘロドトスをはじめとする文筆家の紹介により、
「王の道」は当時のオリエント世界はおろかギリシア人にとっても優れた交通網であるという認識が広まり、後世には「最短距離を結ぶ近道」の象徴として、しばしば言及されることになったのです。

※ちなみに、以上の逸話は5世紀の文筆家プロクロスの記述に登場するもので、史実上の出来事か否かは疑わしいです。また、全く同じやり取りが、アレクサンドロス大王とやはり数学者であったメナイクモスとの間にもあったという異説もありますが、これも史実性に乏しいと言わざるを得ません。


「王の道」≠最短ルート?

と、このように後世においては最短ルートの象徴となった「王の道」ですが、
考古学の発掘の成果からは、やや違った実態が浮かび上がってくることになります。

⇧「探究」での「王の道」のルート(再掲)

もう一度、「探究」での「王の道」のルートを見てみましょう。
このルート、実はスサからサルデスまでを最短ないし容易に結ぶルートでは決してないのです。

それが如実に反映されているのが、メソポタミア北部です。
ここは標高が1500メートル前後の高い山々が聳えており、
一方ですぐ南のティグリス川とユーフラテス川に挟まれた一帯は比較的に平坦な地形が広がっています。
ニネヴェという都市から南を通るルートはなだらかでしょうが、
一方でニネヴェの北を通るルートは、わざわざ険しい峠道を越えることになります。

確かに、「王の道」は優れた道路網であり、
効率的な移動や、地方統治に大きく貢献したのは事実です。
にもかかわらず、「王の道」は最短ルートでは決してないのです。

一体これはどういうことなのでしょうか?
続いてはその背景について迫ってみることにしましょう。




アッシリア王アダド・ニラリ2世について刻まれた石碑

4.アッシリアとその交通網


⇧「探究」での「王の道」のルート(再再掲)

もう一度、「王の道」のルートを見直してみましょう。
すると、「王の道」の交錯する地点に、ニネヴェという都市が位置しています。
このニネヴェからサルデスには、南北2つのルートがあることは先ほども言及しましたが、
ニネヴェ」と言えば、世界史に馴染んだ方であればある国家の存在を思い出すのではないでしょうか?

それが、「アッシリア」です。
前7世紀に古代オリエント世界を統一し、史上最初の「世界帝国」として君臨した民族/国家であり、
ニネヴェは前8世紀より、アッシリアの首都となった都市です。

このアッシリアと言えば、駅伝制を整備したことでよく知られます。
アッシリアは各地に宿駅を設け、各地で伝令が担当する地区も割り振られていました。
駅伝の伝令や馬は各地の軍が提供しましたが、アッシリアは伝達手段として騾馬(ラバ)を積極的に活用しました。
騾馬はウマとロバの交雑種で、ウマの脚力とロバの頑丈な体力とが合わさって長所を備えますが、代わりに生殖能力がなく繁殖は容易で張りません。
アッシリアは騾馬を険しい山岳地帯に活用するなどして、情報伝達を向上させたと考えられます。

さて、「王の道」に本題を戻すと、
アケメネス朝の「王の道」のルートは、アッシリアの道路網を踏襲・拡充したものであると言えるのです。

アッシリアはメソポタミア北部を根拠地とした国家であり、
メソポタミアの南北とアナトリアを結ぶ地点を中心に、道路網が広がっていました。
これに、アケメネス朝(ダレイオス1世)は、自分たちの根拠地であるイラン高原西部にも道路網を拡充するのですが、
実はこの一帯ですら、かつてはアッシリアの勢力圏でした。

よって、見方によっては、
アケメネス朝の拡張そのものも、アッシリアの道路網を活用したものであると見なすことができるでしょう。
さらに言えば、アケメネス朝に滅亡をもたらしたアレクサンドロス大王の東征にしても、「王の道」をはじめとする交通網が活用されたのは明らかです。


* * *


古代帝国、あるいは世界帝国と呼ばれる広域国家は、
どの国家であろうとも交通網の整備に共通点を見出すことができます。

しかし、優れた交通網の存在は帝国の屋台骨を構成した一方、
その交通網を活用した外民族による征服をも容易にするという、見逃し得ない特徴もあるのです。

また、アッシリアやアケメネス朝といった古代帝国の整備した交通網は、
後にイラン高原北西に伸びるホラーサーン道や、
インド亜大陸を東西に結ぶ「大幹道」Grand Trunk Roadなどにも影響を与え、
最終的にシルクロードの開通と、東西交流の黎明に寄与することになったのです。


* * *


今回はここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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