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若者が自分の意見を言う 前編

教育論の中では、
「自分の意見をしっかり言う子どもに育てる」という方針を掲げるところもあります。
人の意見に流されるのではなく、まず自分の考えがあり、それをしっかり意思表示する。これが民主主義の基礎になるとする考えです。

例として挙げられるのは、日本の学校授業は教師による知識の一方通行の教育です。
外国の授業は生徒によるディスカッション。教師は交通整理するだけで意見を言わず、これによって自分の意見を持った素晴らしい民主主義の社会を形成するということです。


うーん、私は何か胡散臭さを感じるんですよね。
外国の授業の実態は、それぞれの意見を出すだけで結論なんか出るわけありません。
ディスカッションの本来の意義は、多様な視点を出すことで物事の輪郭が見えてくることです。自己主張して意見をぶつけることではないと思います。(弁論部などは、自己の考えとは別でも、その立場の意見を相手の矛盾を突きながら競うゲーム性を意図して、別の意味になってます)
現実の結果は、外国の民主主義はバラバラの対立構造。Aの考えとBの考えをそれぞれ主張しあって永遠に対立します。利己主義のぶつかりになってます。

そんな社会が実像なのに、「自分の意見をしっかり言う」という考えをありがたがる教育論は、疑問に思ってしまうんですよね。
良くても、才能に委ねることになる
悪い面では、言語表現が優れたものだけが有利になり、地味だけど能力ある人が損します。


未熟な人の意見なんて、どうせ空っぽです。
ラーメンがいいかカレーがいいかの好みのグルメレポートであって、意見ではありません。
X(旧Twitter)で、中身のないことをつぶやくのが大事なことではありません。
子どもは空っぽだし、それを美化する大人も空っぽです。
子どもに考える材料を与えて、その材料を試行錯誤する時間が必要だと思うんですけどね。

若い人の意見が大事として、知識が乏しい子供に政治や社会問題を語らせるシーンがあります。
決して悪いことではないんですけど、専門家の意見よりも正しいとする風潮で、ごまかして媚びてる部分があります。
ポジショントークで誘導する専門家もいるから注意しなきゃいけませんが、それさえも見抜ける知識が必要です。
むしろズルい大人に誘導されて出来あがった若い人の意見だと、大義名分で進めてる側面もあります。
大人の気に入る答えを知って応じる自分は賢いと勘違いしている子供は、蝕まれている自分を気づいてません。


長くなったので、多分明日に後編です。

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