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日本を支配した一族と原風景


大河ドラマの今回のテーマを知って、またあることを思い出してしまいました。
日本は有史以来、大きい転換期が2回あると思ってます。
それは、明治維新と、大化の改新です。
これが、教科書とは全然違う大きな出来事だと私は思ってます。

日本の地は大和時代まで国際都市でした。
聖徳太子(別人)は、様々な国と均衡を図り、中立で独立的なwin-winになる政策をとっていました。
ここで登場する中臣鎌足。藤原氏の始祖です。
中臣鎌足は百済の王子です。
(実は確定はしてないのですが、少なくとも朝鮮半島の1国である百済に関する重要人物)

藤原(中臣)鎌足は、中立的な日本ではなく、百済同盟国にしたいため、中大兄皇子(後の天智天皇)をたぶらかして、蘇我入鹿(聖徳太子に架空した人物)を殺しました。
乙巳の変です。政権クーデターです。百済による王朝の乗っ取りです。

それによって、白村江の戦いで百済の援軍として日本が無益な戦争をすることになりました。
無残に敗れ、百済の子孫たち藤原氏は朝廷の重要ポストにしがみつき、天皇を神輿に担いだ独裁政権を長年続けました。
明治まで続いた長年の朝廷の公家たち、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家、これらは藤原氏の嫡流です。摂政・関白、太政大臣など貴族の特権階級は藤原氏で、明治維新まで独占してきました。
硬軟ありましたが、歴代の天皇を有名無実化し、実質的な権力を握りました。
藤原不比等にまつわる長屋王や崇徳天皇など、藤原氏の周りには、皇族の無念の怨霊だらけです。
そんな恨みなどで怨霊化した霊を鎮めるのが神社仏閣である側面があります。
(そんな神社に個人的なお願いをするのは、恨みの力を貸してくれということになる時もあるのではと思います)


聖徳太子の政策は、合議制で話し合い、実力主義で身分によらず出世できました。
中臣鎌足からの藤原氏で、律令制という法律と、身分制度は血筋で支配しました。
藤原氏の支配で7世紀から19世紀まで続いたのです。
武将による政権がありますが、秀吉以外は血筋で支配し官位をもらう制度に変わりはありません。もし聖徳太子の政策のまま続いてたら、欧米を全部足したような国際中心国だったかもしれません。

蘇我入鹿の首塚が、明日香村の飛鳥寺にひっそりとあります。
かなり前に訪れたことがあるのですが、ここがサンピエトロ大聖堂のようになった可能性もあったんだろうなぁと想像したことを思い出しました。
近くに、蘇我入鹿の墓であると言われている石室があります。日本版ストーンヘンジと言われ中に入ると隙間から光が刺し、なかなか独特な空気感であります。

京都は日本文化と言うよりも、瞬間的に華開いた幽幻の国である気がします。
(TDLは「夢の国」。同様に限定の幻想エリア)
奈良の飛鳥地方などが、日本の原風景の体現地であるような気がします。
田畑の中に点在する寺社は今も息づいてます。それゆえに遺跡が跡地ではなく当時の空気感のまま佇んでいます。
奈良の観光PRになってきました。

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