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自らの命を計る身体と精神の狭間

自死について語ります。
なので、読みたくない方はここでお止め下さい。


交通の便が良い観光地にある寺社と違い、奥地の寺社に行くと興味深いものが見られます。
即身仏。生きながらにしてミイラになろうとした僧侶です。
見方によると、自殺者の遺体です。しかし仏像と同列に崇められてます。
補陀落渡海。生きながらにして出られない箱に入り舟を海に流し、浄土を目指します。
熊野の寺社で見られ、和歌山の太平洋沖は浄土と考えられてました(熊野の海から上陸してきた古事記の神話から考えられます)。
自らの意志で海に果てます。自死です。

仏教の世界では、涅槃に入ることを止めるも容認するもありません
利他的自殺の考えで、衆生のために自殺するのは善でした。(当然、これを悪用する行為も歴史上あります)
私個人的には善も悪もなく、1つの選択だと考えてます。
ブッダは、自殺に明確な答えを出しませんでした。
ある修行僧が悟りに至りましたが、病気で耐え難い痛みがあり、自殺を選びました。
ブッダは「涅槃に入られた」と表現しました。
不殺生の教えがありながら、利他的どころか利己的な自殺も悪とはしませんでした。


イエスだって自殺みたいなものです。
逃れられるはずなのに、わざわざ死ぬ選択をしています。
ユダに裏切られるのを知りながら祈りの山からローマ兵を待ち、パリサイ派大司教にもヘロデにもローマ総督にも弁明せず、バラバを優先する民衆の娯楽にも受け入れ、自らの死を避けませんでした。
「エリエリ、レマ、サバクタニ」と絶命する寸前に、見捨てた神に訴えたのは、神が助けてくれると思っていたから自殺ではないと言うのでしょうか。
「人々の原罪を背負って磔にされた」、これは後の解釈です。聖書の中で、イエスが磔にされた理由の発言の明確な記述は、私には探せません。
イエスの真意はイエスにしか分かりません。
行為として死を避けなかった、他者が解釈によって判断するならば、自死する人も解釈次第になってしまいます。


他人を死に至らしめる事はしてはいけないように、自身を死に至らしめる事はしてはいけません。
あらゆる宗教で、この様な死に対する共通することがあります。
そうならば同時に、
他人の死を手段にかかわらず尊厳を持つように、自身の死を手段にかかわらず尊厳を持たねばなりません。
あの人は正しい死に方、この人は間違った死に方、このような分別はいけないように、私は正しい死に方、私は間違った死に方、このような分別もいけないと考えられます。

あなたという私、私というあなたが、共に判断して下した決断です。
自身で判断できずに、策略者による思い込まされた判断が自分の判断のようになっているのが問題です。
子供の問い「なぜ人を殺してはいけないか?」。
これに対するあなたの答えが、どのくらいの深さで、どのくらいの思い込まされた考え方であるのかが浮き彫りにされます。
スピリチュアルで誰か(別存在含めて)が出した答えを鵜呑みにするのも、伝統宗教で出した答えを鵜呑みにするのも、全く同じことです。
結論は同じでいいから、自身の中での矛盾を気づけば、発展した自身の考えになると思います。

過去に私なりに考えた尊厳死の記事です。
セルフペタリンコ。


仏教は、自死について議論が深まっております。さすが哲学の宗教、答えが出るほど深遠なる答えが出てきます。
キリスト教は自殺を1番の悪としてるくらいです(イエスは言ってない)。神が与えた命を殺す、神に最大に反することになるからでしょう。
ある側面としたら、そうなのでしょう。
逆に、神の方が人より上という支配者側の従属意識の植え付けに利用しているよう感じます。
自殺を絶対悪とする支配側の考え。
牧畜してる羊が自分で自決しては困ります。
増やしたい時に増やし、減らしたい時に減らす、生死を決めるのは管理側であろうとします。

私は、個人的には、自分の意志で自殺しないし、他の人も自分の意志で自殺以外の道があると考えています。
しかし、自殺はいけないものと管理側の洗脳を無自覚に唱え、自殺したい人を更に追いつめる考えはしません。

死ぬ自由がある。
だから生きられる。

自死するには自分の肉体を死に至らせます。
そんな身体の苦痛より精神の苦しみの方が辛いから自殺します。
それなのに、生きなければ「ならない」と追い詰めてはならないと考えます。
自殺の是非では無いのです。
殺人を犯す人は、刑が重いからやめるわけではありません。極刑だろうが殺そうと思う、そこまでに至った原因が問題なのです。

死にたいほど苦しむあなたに責任はありません。
あなたを追い込んだ、あなたを含めた社会に責任があります。

逃げの自殺を肯定はしません。夏休みの宿題から逃げても学校でやることになるだけです。
自殺志願者を後押しもしません。ただ理由が問題なだけです。その問題よりも、自殺の是非を考える方が相手を考えてません。
自殺を考えるまでに陥った人を追い詰める考え方をしてる限り、自殺志願者の背中を押してます。
死ぬ自由を知られるから、生きようと思える。
そんなふうに考えます。


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