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ドライアド・ドライアド

文:井上雑兵
絵:フミヨモギ

 ぼくの初恋の相手は樹木だった。
 比喩でもなんでもなく、少年だったぼくはあの樹を愛していた。

 高校二年の夏のことだ。
 同じクラスの女子に呼び出されたぼくは、校舎の裏に位置する小高い丘に向かっていた。
 街を一望できる場所には、大きな常緑樹が生えていた。たぶんクスノキだったと思う。幹の直径は二、三メートルはあろうかという、かなりの巨木だ。
 この樹は学校における告白の定番的な場所で、ここに呼び出されるということは……要するにそういうことだった。
 おいおいマジか。
 とうとうぼくに彼女ができてしまうのか。
 これ以上なく浮き足立ちながら、ぼくはゆるやかな傾斜の丘をのぼった。

 ふと見上げ、その存在を目のあたりにした。

 陽光を照り返し、まばゆくたわわに繁った青葉。
 悩ましくしなり、蠱惑的な曲線を描く幹。
 これまでに感じたことのない謎の官能を呼び起こす、黒く湿った樹皮……。

 街に住んでいればどこからでも見えるその樹を、ぼくはこの日、初めて間近に目にした。
 そして、なぜか心を奪われた。
 ぼくは草木とか植物が特別に好きというわけでもないし、正直たいして詳しくもない。
 それなのに、どうしてこんな気持ちになるのかまったくわからなかったけれど……とにかくぼくは恋に落ちた。
 自分でも知らなかった、胸の中にある扉が音を立てて開いたような気がした。大きく開け放たれたその場所から、未知の感情がどんどん溢れ出てくるような。
 僕自身うまく説明できないし、たとえ説明できたとしてもだれかに理解されるとは思わないけれど……。

「――くん? ねえ、聞いてる? あのね、私、きみのことが……」

 すぐそばで、ぼくの名を呼ぶ声が聞こえた。
 ぼくを呼び出した女子だ。
 クラスで三番目か四番目ぐらいに男子から人気があり、髪が長くて胸の大きい娘だった。
 ぼくは、ほとんど夢うつつのような状態でこう答えた。

「ごめん。ぼく……好きなひとが、いるから」

 その娘が悲しげな顔をして去っていったあとも、ぼくはその場に残り、その樹をずっと見つめていた。赤く燃えるような残照が地の果てに沈むまで。

 その日から、ぼくは毎朝その樹のもとへ足を運ぶようになった。
 放課後だと学校の生徒がうろついているし、夜だと暗くて樹の美しさを存分に堪能できない。
 曇りだろうと雨が降っていようと、ぼくは日の出とともに樹のもとを訪れ、始業のチャイムが鳴るぎりぎりの時間までそこで過ごした。
 はじめはただ見つめるだけだったけれど、ぼくは耐えきれなくなり、樹のそばに立ち、その表面に手を触れてみた。
 ごつごつとしているが、部分的にさらさらで、かつしっとりと湿っている。予想していたとおり……いや予想を超えた至高の手触りだった。
 思わず夢中で樹皮を撫でさすってしまったぼくは、ほどなくして自分がやっていることに気づいて息を呑んだ。

 まず湧き上がったのは罪悪感だった。
 一般的に見て常軌を逸した行為に及んだことに対する罪悪感ではなく、自分が樹の意思を無視して身勝手な欲望をぶつけてしまったことに対する罪悪感だった。

 ぼくは樹にある種の人格を見出していた。
 物言わぬ植物に、意識や精神があると。決してぼくにはうかがい知ることのできない心や気持ちがあるのだと。

 もちろん悩まなかったわけじゃない。
 植物性愛デンドロフィリアという言葉を知ったのもこの頃だ。性的倒錯の一種。でも、ぼくは<彼女>以外の木に対して情欲を感じることは一切なかった。
 <彼女>――いつしかぼくはあの樹を心のなかでそう呼んでいた。
 ぼくの特別なひと。生まれて初めての恋。おそらくは実ることのない片思いの相手。
 あの頃のぼくは、ぼく自身を埋め尽くそうとする理不尽さと不毛さを怖れ、震えていた。
 それでも<彼女>を愛することはやめられなかった。こんなにも熱く、強くて激しいものが自分のうちに潜んでいたことに驚きながら。

 夏の終わりが近づいたころ、とある事件が起こった。
 <彼女>――あの樹の根本から、なんと死体が発見されたのだ。
 この小さい街にとって、それはかなりセンセーショナルなニュースだった。

 なんでも、散歩中の犬が古い人骨の一部を掘り出したらしい。
 飼い主が警察に通報して、骨やら衣服やらの鑑識の結果、それは明治初期時代の成人男性のものだと判定された。他殺体というわけではないらしい。
 おそらくは死後、なんらかの事情で届け出なく勝手に樹の下に埋葬されたのだろう……そんなような見解が地元の新聞に掲載されていた。
 ぼくはその記事を読んで、みぞおちのあたりが重くなる感覚を味わった。
 どす黒い粘着性のもやもやしたものを、くすぶる熾き火であぶっているような。

 それは嫉妬と呼ばれるものだった。
 ぼくは、その白骨死体に嫉妬していた。
 <彼女>の根に抱かれ、気の遠くなるほどの長い時間をかけて、その養分となり糧となったその男に。

 同時にぼくは、自身が抱いていた欲望をこの上なく明瞭に自覚する。
 ああそうか。
 ぼくは……ぼくは<彼女>とひとつになりたかったんだ。
 男の子が好きな娘にそうしたいと願うように。

 白骨死体騒ぎを契機に、その樹は学校の生徒たちに親しまれる告白スポットではなくなった。
 むしろ「呪いの樹」などと噂され、生徒や近隣住民から気味悪がられ、忌避される存在となっていった。
 調査のための警察による封鎖が解かれたあとも、好き好んでその場所を訪れる者はいなかった。
 このぼくを除いては。

 日々、ますます膨れあがる<彼女>への恋慕の情。
 自分でも戸惑うばかりの、形容しがたい情欲。
 <彼女>の姿を目にするたび、際限なく募りつづける切なさともどかしさ。

 けれど、そんなぼくの心中を顧みることなく、この街は一つの残酷な決定事項を突きつけてきた。
 風聞の悪い「樹」の伐採。完全撤去。
 すなわち<彼女>に対する死刑宣告だ。
 生徒たちが夏服から冬服に着替え、本格的に秋が深まりつつある日のことだった。

 もともと<彼女>のいる丘の再開発計画が予定されていたことに加え、付近住民の要望が後押しになったらしい。
 あっさりと<彼女>は伐採ころされることに決まった。

「まあ、とても古い樹だし、愛着のある人も多かったんだけどねえ」

 伐採作業の事前調査に来たという市役所の男は言った。いつものように熱心に<彼女>を見つめていたぼくに、伐採計画のことを教えてくれたのだ。

「昔のものとはいえ、まさか死体が出ちゃうとはねえ……そうなると、やっぱりイメージがね」

 適当に相槌を打ちながらも、ぼくは激しい怒りで身体が震えそうになるのをこらえていた。
 ふざけるな。なにが愛着だ。なにがイメージだ。
 そんなものの有る無しで<彼女>をこの世から消し去ろうというのか。
 許されるか。
 許されるはずがない。

 しかし<彼女>の伐採は完全なる決定事項で、しかもそれは明後日に行われる予定だという。
 時間がなかった。
 いや、たとえ時間があったとしてもどうにもならなかっただろう。
 ぼくの想い、怒り、絶望に反比例して、子供だったぼくの力はあまりにちっぽけだった。

 止められない。
 <彼女>の死を、ぼくは止めることができない。
 頭のどこかで、ぼくはひどく冷静にその事実を受け止めていた。
 受け止めた上で、決意した。
 それは、ぼくの中においてごく自然な流れで帰結した。
 ならば。
 ならば<彼女>といっしょに死のう、と。

 ぼくが考えた「心中」の方法は、いたって単純だった。
 家にあるガソリンを持ち出し、<彼女>とぼくにふりかけ、燃やす。それだけだ。
 あとのことは知ったことではなかった。

 結果から言うと、浅はかなぼくの心中計画は失敗した。
 家の車からガソリンを抜き取ろうとしているところを家族に見つかったのだ。
 正直、その前後の出来事をぼくはよくおぼえていない。
 あとから知ったところによると、ぼくは家族に取り押さえられながら、ほとんど半狂乱の状態で泣き叫んでいたらしい。
 感情が高ぶりすぎて失神したぼくは、救急車で病院に担ぎ込まれた。
 意識が戻ったとたんにひどく暴れるので、鎮静剤を打たれ、そのまま緊急入院させられた。すべて、あとになって家族や医者から聞いた話だ。

 ひとつだけ、記憶していることがある。
 薬で眠らされ、混濁した意識の海の底で、ぼくは夢を見た、ように思う。
 夢と呼ぶにはあまりにおぼろげで、儚い体験。
 だれかが、ぼくの胸のあたりにそっと手を触れている。
 ぼくの周囲はまるで真っ白な闇のようで、知覚できるのは唯一その手だけだった。
 どんな感触なのか、どんなかたちの手、指なのか……いや、そもそも手だったのかどうかも定かではない。ただ、たしかにそれは感じられた。

 唐突に、これは<彼女>だ、と直感した。
 そのようにして<彼女>の存在を感じたのは初めてだった。深い歓喜の念がぼくの心を満たした。
 どうかぼくの心が<彼女>に伝わってほしい、と切実に願った。
 同時にぼくは、<彼女>の気持ちを知りたい、と強く祈った。

 やがて<彼女>は、ぼくの中にあった扉をその手でそっと閉じた。
 かちり、と鍵をかける小さな音がした。
 それが終わりの合図だった。
 ぼくの恋の終わり。

 幾度かの検査やらカウンセリングを経て、ぼくが退院した頃には、もうこの世界から<彼女>は完全にいなくなっていた。
 丘の上には切り株すら残っていない。
 ぼくが好きだったひとは、跡形もなく消えてしまった。
 同時に、ぼくの中からも<彼女>への想いは完全に消失していた。あれほど恋い焦がれ求めていたものが、まるで夢か幻だったかのように。

 なぜだろう。悲しさとか喪失感のようなものは不思議となかった。
 もしかしたらあの熱く激しい炎のような気持ちは、すっかり消えてしまったわけではなくて、まだぼくの奥深くにひっそりと残っているのかもしれない。
 それはふとしたきっかけで、また「開かれ」るのかもしれない……。

 あの頃のぼくの気持ちは、懐かしく思い出すことはできても、もう同じように抱くことはできない。
 そのことを再確認するように、夏の季節になるとぼくはこの丘を訪れる。
 学校を卒業して、この街を離れてからも、ずっと。何年も、何年も。

 <彼女>がかつてった丘は、今では小綺麗に整備された林間公園になっている。
 まばゆい陽光のもと、家族連れや恋人たちが行き交うその場所を、ゆっくりと散策する。
 いつも<彼女>が静かにたたずんでいた場所には、今はもうなにもない。
 足を止めて、一面の草地になったその場所を眺める。よく見ると、まばらに小さな樹木の芽が生えている。

 つかのま、ぼくは夢想する。
 悠久とすら呼べるほどの時をかけて、樹の芽が大きく育っていくさまを。
 やがてこの星の大地はすべて樹々の緑に覆われて。
 ひときわ美しい大樹のもとで、ぼくは長い眠りについている。
 そんな情景を幻視したとき、不意に自分の胸の中からかすかな音が響いてくるような気がする。
 それはきっとノックの音だ。
 だれにも知られず叶うことのなかった初恋の残滓が、さざなみのようにぼくの心に触れる音だ。


イラスト:フミヨモギ


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