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インド最後のチャイナタウンを歩く

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コルカタのチャイナ・タウンといえば、ガイドブックではコルカタ北部のティレッタ・バーザール(Tiretta Bazar)が一番に紹介されている。18世紀末頃から、中国人がこの地区に住むようになり、古い建物が立ち並ぶコルカタの大都会の一では、今でも彼らの食文化である「朝粥」が販売されている。しかし、安くて美味しい本格的な中華料理が食べたい!となれば、コルカタの中心地から少し離れた、もう一つのチャイナ・タウンに出掛ける。そう、コルカタには2ヶ所に分かれてチャイナ・タウンが存在する、世界でも珍しい街だ。前者のコルカタ北部のチャイナ・タウンは、「オールド・チャイナ・タウン(Old China Town)と呼ばれ、後者の東部のチャイナ・タウンは、「ニュー・チャイナ・タウン(New China Town)」と呼ばれている。


ニュー・チャイナ・タウンの散策

デリーやムンバイに比べて、コルカタに住む日本人は極端に少なく、デリーに住んでいたことのある私から見ても、コルカタで本格的な日本食に出会えることは少ない。そのなかでも、このニュー・チャイナ・タウンは、まさに日本人にとってオアシスのような存在。マサラに飽きた胃袋を必ず満足させてくれる中華料理が、厨房からどんどんサーブされる。ニュー・チャイナ・タウンが日本人の郷愁を誘うのは味だけではない。この地区を歩いてみると、思わず日本人がホッとしてしまうものが詰まっている。

工場とレストランの関係

ニュー・チャイナ・タウンと呼ばれている地区の正式名称はタングラ(Tangra)。穏やかな昼下がりに、この地区を散策してみた。少し埃っぽい路地を歩いていると、インドではあまりお目にかかれない漢字が、あちらこちらで掲げられている。

誠昌醤園(Sing Cheung Sauce Factory)筆者撮影

「誠昌醤園 創業1954年(Sing Cheung Sauce Factory)」と書かれた鮮やかな扉が目に入った。ここはマーケットで見かけるチリソースなどを製造している工場。他にも「山荘、山亭」という文字があり、近くのインド人の子供に聞いてみると「中国人のお墓だってさ」と、中を見せてくれた。「彼曰く、「今でも墓参りで訪れる人がいるし、中元節(盂蘭盆会)の時は、墓の前に沢山お供え物をしているよ」とのこと。さらに、細道を進むと石板に掘られた「印度塔壩廠商理事会(Chinese Tannery Owners Association, Tangra India)」という文字を掲げたゲートがある。この名称から、チャイナ・タウンがコルカタにできた理由を知ることができる。

東安山亭(Tongoon Cemetery)1900年。筆者撮影
東安山亭内で並んでいる墓石。筆者撮影
四邑山荘 (Sea Ip Cemetery)。筆者撮影
印度塔壩廠商理事会(Chinese Tannery Owners Association, Tangra India)筆者撮影

中国人はコルカタで何をしていたのか?

そもそも大勢の中国人がコルカタにやってきた理由は何だったのか。コルカタは1772年から1911年まで英領インドの首都であり、現在よりも中国からアクセスしやすい状況であった。そして、インドにやってきた中国人は、主に製革・製靴職人。インドやパキスタンでは皮が潤沢にあり、彼らにとっては仕事をするのに事欠かない場所だった。他にも、歯科技工士(義歯をつくる)や大工などの専門職もコルカタで活躍していた。当初、ティレッタ・バーザール周辺を拠点としていたが、次第に製革・皮鞣(なめし)の職業カーストが住んでいたタングラに中国人職人も移り、そこがニュー・チャイナ・タウンとして発展したのである。この印度塔壩廠商理事会はこれら製革・皮鞣工場のオーナーたちによって設立された団体である。

しかしながら、このニュー・チャイナ・タウンは再び移転の危機にある。西ベンガル州最高裁判所が、タングラを含むコルカタ市内の皮革製造工場に対し、更に14km東に位置するバンタラ(Bantala)に建設されたカルカッタ・レザー・コンプレックス(Calcutta Leather Complex)への移転命令を下したのだ。その結果、タングラにある多くの皮革製造工場が広大な敷地をもつ「中華料理店」として生まれ変わったというわけだ。

そこに住む人々はどんなひと?

さらに、散歩を続けると新たな表札を見つけた。「培梅中學」と掲げられている。最初は塾のようなものかと思ったが、どうやられっきとした華文学校とのこと。コルカタには、かつて6校の華文学校があったそうだが、現在は、この培梅中學(塔壩中國城培梅中學)だけが辛うじて残っている。1962年の中印国境紛争をきっかけに両国の関係が悪化すると、コルカタに住む中国人も弾圧を受けるようになり、中国、香港。台湾、東南アジアへと居を移した。その際、次々と華文学校も廃校になったそうだ。唯一残った培梅中學も、1950年代では約1000人の生徒が通っていたそうだが、次第に生徒は少なくなり、それでも中国や台湾、香港から教員を招聘していたそうだが、現在は通う生徒もおらず、ほぼ休講状態が続いているとのことだ。

太寿宮 (Tai Shou Gung Temple)。チャイナタウン入口の門のそばにある。
筆者撮影

路地で元気よく子供たちが遊んでいる。その姿を笑みを浮かべながら見つめる女性がいた。その様相から、中国系の尼僧のように見えたので声をかけてみると近くのお寺で奉公をしているという。真新しいお寺で、佛光山寺(Fo Guan Shan Buddhist Temple) と書かれてあった。総本山は台湾にあり、1967年に創建開山した比較的新しい宗教とのこと。世界各国に寺を建立していると教えてくれた。「やっぱりコミュニティー同士、集まって住むものなんですね」と、ふと口に出したところ、その尼僧が「そうですね。このあたりに住む人はハッカ(Hakka)なので、より結束力があるのかもしれませんね」と、応えてくれた。

インドのレストランでよくみる「ハッカ(Hakka)」の存在感

インドにいると、この「ハッカ(Hakka)」という単語を良く耳にする。インスタント麺の袋や、中華料理のメニュー表にもハッカ・ヌードルと記載され、注文すると焼きそばがサーブされる。ハッカは「客家」のことで、戦乱を逃れて中国大陸を南下したため、自らの国や土地を持つことができず、どこに行っても「お客様扱い」になることから、客家と呼ばれるようになった人々のことを指す。そんな歴史的背景があるが、今日では多くの客家の人々が世界各国で活躍している。彼らの祖先のほとんどが、中国の南部(広東省・福建省・江西省)から移住しており、これらの地域は「客家の故郷」とも称されている。移住先の多くは東南アジアに集中しており、中国以外の国に住む客家の8割を占めている。この東南アジアを除けば、1万人以上の客家が住む国は日本とインドだけになる。

私が足を踏み入れたタングラも客家が占める地区だ。面白いことに、同じ客家でも広東省梅州市梅県(Mei Xian)をルーツとする人々なのだそう。結束力が強いと尼僧が言ったのも、なんだか頷ける。この梅州は香港やマカオ、台湾など世界各国に客家を送り出しており、「世界客都」とも呼ばれるほど。客家にとって世界へ通ずる玄関口が梅州というわけだ。

先に述べたコルカタにやってきた中国人も職業と出身地に大きな繋がりがあるらしい。製革・製靴業に従事していたのは客家。歯科技工士・歯科医で多かったのが湖北省(天門県)出身の中国人。大工は広東人。彼らをインド華僑の三大集団と称することもある。

当時に思いを馳せると、多くの中国人で賑わいをみせたコルカタの一面が目に浮かんでくる。コルカタの客家も、現在はアメリカやカナダなどへ移住する人が多いとか。新たなグローバル時代にさしかかり、古の国際都市コルカタの姿が、ゆっくり滲んでいくようだ。

参考文献
飯島典子『客家 歴史・文化・イメージ』現代書館 東京 2019.5
山下清海「インドの華人社会とチャイナタウン-コルカタを中心に-
」、『地理空間 2-1』 地理空間学会 2009, pp.32-50.

筆者撮影

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