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 結婚するには労力が要る。
 双方の親兄弟に挨拶し、新居を決め、姓の変更などでの職場・役所への届け出やら。
 それに加え、結婚式・披露宴を行うのであれば、お金の準備、日程調整、式場予約、招待客のリストアップ、出し物の手配など、キリが無い。
 コロナ禍で、結婚披露宴を行うことは往時より減ったようだが、最近また復活してきつつあるようだ。

 その結婚よりもっと労力が要るのが離婚である。
 結婚の3倍とか、10倍とか労力が要ると聞く。
 円満離婚でもそれくらいの手間と労力が要るようだ。
 単純に、
「離婚しました。苗字が変わります。住所が変わります。扶養が変わります」
と周囲に告げるだけでも、
「結婚しました」
と周囲に告げるのに比べ、かなりの精神的負荷がかかるものと思う。

 これが、一方が離婚したいのにもう一方が反対しているときなど、労力は100倍以上だろう。
 子どもの親権や財産分与で裁判にでもなれば時間も弁護士費用もかかる。
 何年も争うことになれば、
「いったい自分は人生の貴重な時間を費やして何をやっているのだろう?」
と自問することもあるに違いない。

 始めるよりやめることの方にはるかに労力を費やす一例として離婚を挙げたが、学校にもそういったものは存在する。
 学校で行われている大小様々な活動。
 何か新しい活動を始めるのは、やめるのに比較すればまだ簡単だ。
 新しい活動の意義などを提示すれば
「それもそうか」
「子どもたちのために、よし、やろう」
と教職員は割と協力的になってくれる。
 日本の教員は、「子どものため」となれば、基本的にはみんながんばってくれるものなのだ。

 だが、やめるときになるとどうか。
 全員一致でやめるのに賛成――というのは、まずない。
 必ず反対意見が出る。
 職員会議で、物事を多数決で決めることは、ほとんどない。
 いろいろな意見が出て、でもまあ、何となく意見の大勢はこっちで、強硬な反対意見も無いようだから、こっちに決めよう――みたいな感じで物事は決まる。
 
 そもそも職員会議は、学校運営の最高議決機関ではない。
 校長が学校運営をしていくにあたって教職員から意見を聞くための補助機関であると、2000年に学校教育法施行規則第23条で定められている。
 ん? 2000年に?
 かつて教頭試験を受けるためにいろいろ勉強したとき、職員会議について法律で定められたのがずいぶん最近なのだなと驚いた覚えがある。
 20世紀の間は、職員会議は実質学校の最高議決機関だったのだ。
 だが、それだと校長が主体的に学校を運営することができない。
 職員会議が最高議決機関だと、職員みんなが校長の方針に反対の決定をしたら、校長自身も自分の意に反する職員会議の決定に、不本意ながら従わなければならないからだ。
 そういった問題点が指摘され、ずいぶん遅いが、20世紀の終わりになってやっと、
「職員会議は最高議決機関じゃなくて校長の補助機関ですよ」
「学校運営は校長の方針でやるんです。職員は従うんですよ」
というように法律で根拠づけがされたのだ。
 だから、職員会議で多数決などというのはそもそもおかしいのである。

 だが、現実的には、職員会議で話し合われて決められた物事については「校長が追認する」という形をとっている学校が多いと思う。
 まあ、だから、21世紀になっても実質的には職員会議が相変わらず最高議決機関の性格をもっているのだ。
 だが、それでもどうしても校長が「ここは譲れない」という事項がある場合は、校長は「ここは、こうします!」と言うことができる。
 そしてその根拠、エビデンスとして法律があるのである。
 法律の後ろ盾は、校長にとってはありがたい。

 ただ、学校は(学校に限らずどこの職場も同じであるが)人間関係で成り立っている。
 校長がいくら「Aでいきたい」と言っても、教職員たちの総意が「Bでいきたい」だったり、教職員たちと校長の人間関係が壊れていたりすると、いくら校長に法律の後ろ盾があったところで学校はうまくいかない。
 校長といえど、そこは職場の人間関係をうまく構築しながら学校運営に取り組んでいかなければならなのである。

 さて、物事をやめる際の労力の話に戻る。
 学校で行ってきた何らかの活動をやめようとする提案をすると、必ず反対意見が出る。
 そして、反対する者は、その活動の意義を主張する。
「この活動には、子どもたちにとって、これこれこういう意義がある。だから続けるべきだ」
というわけである。
 日本の教員たちは「子どものため」という言葉に弱い。
 「子どものため」と言われると、とにかく何でもかんでも自分を犠牲にしてまで頑張らなければと思う者が少なくない。
 だから、やめる活動は無いのに、やる活動だけはどんどん増えていく。
 教員たちはどんどん多忙になる。
 学校がブラックと言われる所以である。

 だが――

 考えてみてほしい。
 学校で行われている全ての活動には、子どもにとって何らかの意味があるのである。
 無意味だったら、最初から行われているはずがない。
 どの活動にも意味はあるけれど、AもBもCもあったのでは十分取り組み切れないから、だから1つはやめよう――そんな感じでやめようという意見が出るのである。
 無意味だからやめようと言っているわけではない。

 ここで話し合いが紛糾すると、現状維持になってしまうことが多い。
「これまでだってやってきたんだから、これからもそうしていきましょう」
というわけだ。
 校長がここで、法律を盾に「校長として、ここはこっちでいきます!」と主張したら、どうだろう。
 職員の大多数が反対のことだったら、その後の職員からの反発はすさまじい。
 その後の校長の学校運営には大いに支障が出る。

 では、反対が一部の職員だった場合はどうか。
 その、反対している職員がどういう性格かにもよるが、校長とその当該職員とのその後の人間関係に影を落とす可能性は十分考えられる。
 当該職員が学校運営におけるキーパーソンの1人だったりすると、やなりその後の校長の学校運営には大いに支障が出ることになる。

 そうなると、校長としては心理的には多数決で物事を決めてもらったほうが楽である。
 多数決で決めたんだから、採決のときは反対だった人も、採決後はみんなでそれに従いましょうというわけだ。
 校長が、個人的に特定の職員からうらみを買うことはない。
 校長によっては、
「職員会議の多数決の決定をもって、校長の方針とする」
という学校運営をしている人もいるだろう。
 校長と職員との人間関係の軋轢は生じないかもしれないが、校長の個性を発揮した学校運営を行うことは難しくなる。
 また、職員の中に、他の職員たちへの影響力の強い者がいて、その者の方針が校長と180度違うなどというときは、校長はもうお飾りとなってしまい、学校を牛耳るのは実質その影響力の強い職員となってしまう。

 20世紀までの学校は、そういうところがあった。
 20世紀の頃は、まだ私も一般教員だったが、発言力の強い教員が他の教員たちを味方にして、校長に真っ向から逆らっているシーンをしばしば見かけたものである。

 そういったことを是正するための、世紀末の職員会議の法律規定だったのだが、本当はそんな法律の後ろ盾が無くても、教職員からの人望を集め、人間関係の軋轢無く学校を動かしていけるのが、大校長と言われるような人なのだろう。
 振り返って見て、なかなか私には難しかったが。

 パワハラやモラハラについての意識が高まっており、今では校長も職員に対する言動の1つ1つに最新の注意を払うようになっている。
 ちょっと過剰かなと思うところもある。

 人々の価値観がますます多様化する中、今後の学校経営は、校長にとって更に苦労の多いものになっていくのだろうな。

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