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雑感記録(177)

【批評/哲学を愛するということ】


ここ数日、僕は柄谷行人の本ばかり読んでいる。これは以前の記録にも触れたが、『探究Ⅰ』を購入し読み始めてから再び再燃したのである。また、偶然にも発見したじんぶん堂のインタビュー記事も大きな契機となったことは言うまでもない。以下にリンクを再再度貼り付けておく。ぜひ読んでみて欲しい(ちなみに、昨日1月15日に最新記事が出たのでそれを貼り付ける。これもかなり凄い内容なのでぜひ!)。

ところで、僕は以前の記録で柄谷行人を書いていて思ったのだが今時の文学部の学生は例えば「文藝批評」を学ぶ際には誰から入るのだろうかと単純に疑問に思った。僕が学生の頃は、それこそ文藝批評家の授業を取っていたのでその影響を色濃く受けていた。だから僕の場合は文藝批評の影響を受けたのはその文藝批評家である訳だ。別に名前を伏せる必要もないので書くが、渡部直己である。彼の授業を学べたのは、まあ、その人間性は除くとしてそれなりに実のある授業であったことは間違いない。

ある意味で、この人のせいで人生狂わされたみたいなところがある。もしこの人の授業を受けていなければ文藝批評に興味を持つ事なんて無かったし、文学というものにのめり込むということは無かっただろう。なまじ、中途半端に関わってしまったのが良くなかったのかもしれないとは思うが、それでも彼のお陰で一応今の僕があるのだからそれなりに感謝はしておくことにしよう。


まあ、そんな話は置いておくとしてだ。僕は個人的に今どきの学生が「文藝批評」というものを学ぶ際にまずは誰から当たるのだろうか。僕はそこが気になって仕方がない。ただ、前提としてそもそも「文藝批評」なるものが学ばれうるかということすら怪しい時代にはなる訳だ。僕の記録では再三、もうくどい程書いているが、柄谷行人自身がある種の「文藝批評放棄宣言」なるものをしたのだから、文学というものがもはや危ういのかもしれない。

僕は本当に渡部直己のせいで最近の批評家を知らない。彼は柄谷行人や蓮實重彦などとある種日本の批評界を担っていた一翼である訳だから、授業でも、まあ今思えば自慢的な話が多かったような気がしなくもない。加えて、彼の文章は退屈である。授業は物凄く面白いのに、彼の文章は至極退屈なのである。読んでいてもワクワクすることがない。

社会人になってから「これはいかん」と思って自分で探り探りで色々な批評家の本を読み続けている。個人的に大澤真幸や佐々木敦の書く文章が好きである。それこそ「柄谷行人み」を感じるのである。文章を読み進めるとワクワクが止まらないのである。

これは柄谷行人の著作にも言えることだが、それが「批評」というより1つの「物語」として読めるという所が僕は好きなのだ。厳密に言えば「批評」という「物語」を書いているということなのだろう。それが大澤真幸にも佐々木敦にも感じるのである。加えて、これも僕の個人的な感想で申し訳ないが、自分の欲してるものが常にそこに在る。要するに「文章が好き」である。


面白いのは大澤真幸も佐々木敦も「文藝批評家」では決してない。大澤真幸は一応社会学者という括りらしいし、佐々木敦の場合はその語れる範囲が多岐に渡りすぎて、「文藝批評家」という枠をはみ出て横断的な批評家であり、そこに留まるということは無いのだ。でも、だからこそ、面白い文章が書けるのであろうし、ウィットに富んだ作品を数多く生み出せているのであると僕は偉そうに想像してみる。

こういう現象から考えてみても、「文藝批評家」なんて今では存在しないのだと気付かされる。今は批評家しか存在しないのである。ということは、文学をこれから学ぼうとする若者は恐らく「批評家」の文章から入ることになる。何も「文藝批評家」から入る必要は決してないということだ。

しかし、これは今に始まったことではないのではないか。例えば中平卓馬と篠山紀信の『決闘写真論』なんかは別に文芸批評家による文章ではない。だが、読んでみると写真に納まらず、あらゆる芸術にも影響を与える作品であることは間違いない。無論、中平卓馬自身がリカルドゥを読んでそれについて書くぐらいなのだから、何も文藝批評だけが全てではないということである。

ただ、文藝批評が今では声高に言われなくなったということは、やはり柄谷行人の指摘するように文学なるものがもはや力を持たなくなった、社会に対する影響力を持たなくなってしまったということなのだろう。恐らくだけれども、批評を語るには「文学」ということを考えなければならないのではないかと僕には思えて仕方がない。

別に批評というものが文学だけに限らないということは十分承知している訳ではあるのだが、やっぱり文学を学んでいた人間からすると、出発点はどうしてもそこからになってしまう。


それで色々と批評を読んでいく中で気が付いたのだが、結局哲学にぶち当たるのだ。それは批評家たちが哲学の問題を取り上げているということもあるだろう。というよりもだ。哲学というものは我々の生活に根差しているものであるのだから当然と言えば当然のことであるかもしれない。哲学の出発点は悉く僕等の生活(広い意味での生活ということである)から出発しているのだから。

小説や詩というものも我々の生活から出発しているのである。要するに1番身近にあり、文化として浸透している物であるのだ。グラムシ?だったかな?所謂、左翼の人たちの派閥としてグラムシ派なんてものがあったと記憶しているが、僕等の文化からそういった社会思想を伝播させていくということを掲げていたような気がしなくもない。僕の些細な記憶なので、あてにしない方がいい。

だが、これは僕が専門としてきたプロレタリア文学にも通ずるところは当然にある。彼らは自分たちの小説や詩で社会を変えようと、ある種プロパガンダ的な意味合いの作品を数多く生み出している訳なのだから。文化という観点から社会主義思想を広めようとしていた訳なのだから、1番手っ取り早いと言ったら何だか些か言葉足らずのような感が否めないのだが。本気で文学というものを信じ、それが社会を変え得ると信じていた。

しかし、今はそんなことは別に必要ないと言えば必要ない。この社会に住んでいる人たちは別にそんな小説や詩を欲していない。娯楽的な小説や詩を望んでいるのである。ニーチェも言っていたが、「その人自身が真に必要として初めて"真理"足り得るのである」ということなのだ。つまり、そういった何か社会を変え得るような作品なぞは必要とされていないということであるということではないのかと考えてみたりする。

そんな中で、文学をやるということは必要とされていなものを細々と続けていくことになる訳で、そんな物を誰が引き受けるのかという話になる。これは過去の記録でも何度も何度も書いているが、現在は「多くの人に取られる」いや、「多くの人に購入される」ということがある種の至上命題なのであるから、そんな中で細々と死滅した文学なぞというものを続ける意味が果たしてあるのだろうか。

とこういう書き方をすると、「多くの人に読まれるということがあってこそ、初めてそれが文学たり得る」などと言われるかもしれない。無論、そこは僕も否定しない。これも過去の記録で書いたが、テクストは自立しないと思っている。多くの人に読まれてこそ、多くの「読み」が生まれそれが初めて作品として成立するのである。ただ、ここで重要なのはその「読み」というものの「質」がある種問われることにある。


そう考えると、いや、考えなくても、文学と批評は切っても切り離せない関係である訳だ。これは大学の時に再三言われたが、良い作品は必ず批評されるものであると。批評されて初めて良い作品となり得ると。僕もそれには激しく同意する。

それをもし今の時代でやろうとするのであれば、それは「批評」として受け取られるのではなく、「批判」として受け取られてしまう。それは言い方は非常に失礼この上ないし、僕がいけしゃーしゃーと語れることでは決してないのだけれども、単純にその語るレヴェルが低下しているということなのではないだろうか。良い作品があっても批評する側のレヴェルが低下していることが大きな原因でもあるだろう。

だから僕が今もこうして批評や哲学にこだわるのにはここに理由がある。

僕は好きな物事、それは小説でも詩でも、音楽でも映画でも美術でもそうだ。それを語るにはやはり「好き」という感情だけでは厳しい。本当に愛があるからこそ「つまらない」「陳腐だ」と言う。でも、そこにはしっかりとした根拠がなければいけない。その過程を無視するのは良くない。非常に良くないのであると少なくとも僕は考えている。

「道具」という考え方はしたくないが、好きな物事を語るには僕にとって批評や哲学が必要なのである。それは考え方も勿論そうなのだが、作品を作品たらしめる為に、そして作品に愛を注ぎたいが為に僕は批評と言う手段が必要なのであると僕は思う。後世に残したいからこそ。良い作品であるからこそ。もう1度言うが、良い作品は良い批評とセットである。


さてさて、話が大分逸れてしまった。

最近の学生の批評の入り口は何処なのだろうという話だったはずだ。しかし、僕はこうして書いてみて思ったが、もしかしたら今どき文学を学ぼうとする若者は柄谷行人や蓮實重彦など通らないのではないかと。もっと言えば、文学に哲学の理論なぞ要らない、不要だと考えられているのではないかと僕には思われて仕方がない。

でも、冷静に考えてみて、文学部文学科と文学部哲学科と言うように分化してしまっているのだから、初めて文学に触れる人たちからしたら文学と哲学は既に切り離されてしまっているという認識なのではないだろうか。まず以てその認識を変換するところから考えねばならないのかなと思ってみたりもする。

何だかまた結局纏まらずに終えることになりそうだ。ただ、僕は批評や哲学が持っている可能性と言うのをこれからも信じ続けて生きていくことは間違えないだろう。僕はハッキリ言って批評できる程にはまだまだ知識というか、考えが浅すぎるし文章もご覧の通り下手くそである。「批評」という「物語」を語るには未熟も未熟なのである。

だからこそ僕は批評と哲学を欠かさない。それは自分が大好きなものを他の人と比べ物にならないぐらいに好きだぞ!と言えるように学び続けるだろう。

もし、奇遇にもこの僕の稚拙な文章を読んでくれる学生の人が居るのならば、ぜひ僕は声を大にして言いたい。好きなことを語るには「好き」と言うだけでは決して語れない。だからこそ、好きなことを語る為に批評や哲学にぜひ積極的に触れて欲しいと切に願う。

今後、僕のようなクソ批評家面もどきが現れないことを切に願って。

よしなに。

そういえば、『中野重治全集』届きました!初めてペーパーバックで注文したのだが最高過ぎた…。筑摩書房…大好き。ちなみに、この22巻に収録されている『日本語実用の面』は凄く面白いのでオススメ。単行本を実家に置いてきてしまっているのでこちらで読めるのは有難い。

さらにちなむと、中野重治の批評も最高に面白いのでぜひオススメしたいところではある。全集の何巻だったか忘れたが…たしか12巻だったかな…?『批評の人間性』と言うのがあるんだが、面白いのでぜひ!

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