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雑感記録(114)

【"その道のプロ"とは】


仕事のやる気がゼロだ。ここ数日、僕は何だか心ここにあらずという感じでこなしている。それはそうだ。僕は今ここではなく、その先での今ここを見ているからだ。僕が僕らしくあれる場所で早く働きたいという気持ちが先行しており、もう現状はどうでもよくなってしまった。

そんな中で、僕の職場に監査が一昨日から入った。今日で最終日で、3日間の指摘事項を纏めて係内で共有した。ご多聞に洩れず、僕も指摘事項を喰らって所謂「事故報告」なる報告書を作成しなければならなくなった。しかし、その該当部を伝えられたのは定時3分前ぐらい。もっと早く教えて欲しかった。そうすれば早く動けたのにと思ったが、結局思ったところで時既に遅し。

僕の指摘事項を見て、正直感じたことは「めんどくせえ」それに尽きる。こんなことでいちいちやってられるか、というのが本心だ。こんなちまちましたことで言われていたら腹立たしいことこの上ない。これで何かお客さんに迷惑被ることは微塵もない。別にこれをしなかったからと言って、僕等にも影響はないし何にもない。こういう細かさ、厳密に言えば「どうでもいい細かさ」がやっぱり嫌いだ。


監査の人間たちはある意味で「銀行のプロ」「銀行の内規のプロ」である訳だ。しかし、僕は彼らを見て感じるのは「ただのいちゃもん付けたいおっさんたち」。事後的なことをああだ、こうだと言われても「今更何を…」という感じな訳だ。況してやそれをリカバリーしろとは…。じゃあ、定期解約させるか?投資信託を解約させるか?新規口座を改めて作成するのか?……訳が分からない。

僕は「その道のプロ」という言葉が嫌いだし、そういう人たちが嫌いだ。

"プロ"という存在は何だろうか。何者なのだろうか。"プロ"という言葉を聞くと何か専門として、極めた人というイメージがある。僕も"プロ"という言葉を見たり、聞いたりすると「ああ、この人は凄い人なんだな」と何となく感じてしまう。しかし、冷静になってみて「この人が凄いからプロ」なのか、「プロだからこの人が凄い」のか?

改めて僕の中で「プロ」について考えてみたのだが、「プロ」というのは何かに対して詳しいとか、何かを極めたというのは間違いないと思う。しかし、その詳しいこと、極めていることの方向性というのが世間一般の考え方ではいけないのではないかと思う。

つまり、「プロ」というのは、ある対象を極めたということではなくて、それに対する自分自身の存在について極めたからこそ「プロ」なのではないかと思う訳だ。

上手に表現できないのがもどかしいのだが、もっと平たく言えば「自分自身の中に居る他者をよく知り尽くしている人」こそが「プロ」だと僕は感じる訳だ。あらゆるものに対して詳しく知っている、この人に聞けば何でも分かる。無論それは確かに「プロ」だ。でも、元々その人たちも最初から「プロ」ではなかったはずだ。何も知らない、ただの一般人だった訳だ。

それが必要に迫られてそうなってしまった、自分が進んでそうなりたくてなった。それはどっちでもよくて、そうなった場合に自分自身の中に居る他者をよく理解したうえで、それを学ばせる継続力。何だろうな、過程的なところで自分自身の中に居る他者をコントロールしてうまい具合に出来てこその「プロ」なのだと思う。


"その道のプロ"とは僕からしてみれば、その道ではない。自分自身の中に居る他者をより理解しているからこそ「プロ」な訳だ。だから、そもそも”その道のプロ"という言葉そのものが間違っていると思われて仕方がない。多分だけれども"その道のプロ"は世の中には存在しないのではないだろうか。

世間一般にそういう風に言われている人たちは、自分自身をより深く理解しているだけに過ぎない。という書き方をしてしまったが、これは並大抵のことでは決してない。自分自身の中に居る他者を理解することは人生を通しても完璧に理解し、コントロールすることは難しい。

そもそも、自分自身の中に他者が存在しているということを認識できている人間はどれくらいいるのだろうか。僕は全然分かっていないため様々な本を読んで、自分自身の中に居る他者を知ろうとしている。あとはこうしてnoteを書き続けることで、自分自身の中に居る他者を理解しようと努めている訳だが、これが中々難しい。

ただ、少なくとも「書いている僕は僕であって僕でない」「読んでいる僕は僕であって僕でない」ということは常々感じている。自分の本心で書いていることは確かで、自分のこれまでの軸を元に書き連ねている訳だし読んでいる訳なのだが、その日の気分や体調によって書き方は変わるし、本だったら読み方が変わってくる。しかし、分かるのはそこまででその先にまではまだ到達していない。

それは僕の怠慢もあるだろう。というか確実にそうだと思う。その自分自身の中に居る他者、これから目をそらして目の前のことにただ向かっている。要は内省を怠っているに過ぎない。ただそれだけの話だ。


僕の一番好きなのは、人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。

大杉栄「僕は精神が好きだ」『叛逆の精神』
(平凡社 2011年)P.5

精神そのままの爆発。自分自身の中に居る他者を理解することが出来れば僕はそれを「プロ」だと思う、個人的に。でも、僕は多分だけれども永遠に「プロ」にはなれないなと思ったし、「プロ」でありたくないと思ってしまった。

勿論、自分自身の中に居る他者を知ることは重要であると思う。「ああ、こういう時はこういう考え方するのね」とか「なんか今日、前読んだ時と違うよな感じ方が…」とか。ただ、それを理解しようとするには無理があるような気がする。こんなこと言い出したら「じゃあ、理解するってどういうこと?」ってなってしまうのだけれども…。

大杉栄のこれを読んで、より僕は「プロ」でありたくないと感じた。多分だけれども、そこで自分自身の中に居る他者が理解できてしまったら面白さが足りないよな…って。ある意味で不安定であるからこそ、そこに面白みがあるのかなと思う訳だ。

クロソウスキーが思い出される。

自分自身の中にあるあらゆる諸力に対して向かって行く。そうして交点から生み出された空間(=シミュラークル)、ここに何かがある訳だ。蓮實重彦か誰かも言ってたけど、僕も「プロ」ではなくずっとアマチュアでいたい。

よしなに。


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