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雑感記録(214)

【素直に「好き」と言いたい】


物を複雑に考えられるようになってから素直に「好き」と言えた試しがないように思うなと、ふと考えてしまった。

これは人間の宿命か運命か知らないけれども、何か物事を複雑に考えられるようになってしまうと、その事物の背後には恐らく何かしらのものが隠されていると考えてしまう。純粋にその事物に対して当たることが出来ない。勉強し考えれば考える程に猥雑になっていくような気がしてならない。考えるという営みはもしかしたらこの世の中で1番卑猥な行為なのかもしれないと思ってみる。

僕がこのnoteに記録していること、とりわけ自身が「好きだ」と豪語している小説や哲学、映画、音楽について語る時。僕はいつも素直に「好き」と言えないでいる。例えば先日の『クレヨンしんちゃん』の記録なんかが正しくその典型である。結局僕は『クレヨンしんちゃん』をフロイト的に見たということだが、その前提に在るのは「『クレヨンしんちゃん』が好きだ」という気持ちである。それがアプリオリにあるからこそ僕は記録を書く訳であって、アプリオリに僕がフロイトの「エロス」や「タナトス」を知っている訳がない。

これは僕のいけない癖だ。

自分自身ではその作品を「好き」であることに間違いはない。だけれどもそこに「好き」という理由を無理矢理にでも取り繕うとしてしまう。しかも、哲学的思考や精神分析的、あるいは構造主義的なんかでもいい。そういった衣装を着せて書いてしまう。「好き」だからこそその「好き」なことを良く見せたいという気持ちも当然にある。「好き」だからこそその作品の良さを最大限見出したい。どんな手を使ってでも。という気持ちが僕が意識しようとしまいと出てきてしまう。

あとは単純に、僕が毛嫌っているSNSエセ書評家あるいは自己啓発本をやたらと紹介するクソインフルエンサーと同じ。自分が学んだことを披露したい。個人的にはこれが1番大きな原因であると同時に、僕の文章が悉く陳腐でどうしようもないものの理由である。これも以前の記録で書いたが「上には上がいる」のである。自分が学んだことを披露した所で、一蹴もされずに終わる。何なら人の目に触れずに終えることだってある。というか事実そうだ。

そうと自覚しながらも書いてしまうのだから、尚のことタチが悪い。それは自分でも十分自覚している。しかし、「好き」なことは諦めきれない。こんな板挟み状態で今、こんな記録を付けている。何だか僕の場合は書けば書く程自分の弱さみたいなものがどんどん露見してくるような気がしている。これを人間らしさと取るか、僕の頭の悪さと取るか。いや、まあこれは考えずとも圧倒的後者な訳だが。


ところで、どうしてこんなことを書こうと思ったか少しばかし触れておこう。

話は昨日のことである。僕は昨日本当に素晴らしい時間を過ごした。何だかこんなに幸せな日が自分にあっていいのか?と自分自身でもよく分からない、嬉しさ?いや何だろう…心のざわつきというか…そういう1日を過ごした。僕はずっと今日も1日その余韻に浸っていた訳だが。

その時に僕は純粋に「ああ、何かこの空間とかこの感じが好きだな」と思った。些か気持ち悪い表現になってしまうのかも分からないが、「この時間が続けばいいな」と心の底から思っていた。しかし、それを頭なのか心の中で思った途端に、「どうして「好き」なのか」と考えだしてしまった。「この「好き」という感情は何処から来るものなのか?」そして最終的に「僕が「好き」って感じる時の「好き」ってなんだ?」とか色々と頭の中を急に襲ってくる。

そしてそこに自分で納得できるような、腑に落ちるような理由をつけようと必死に頭を働かしていた。今、ここに僕の「幸せ」で「好き」という感情を自分自身でぶっ潰してしまった。そんな気がしてならなかった。僕は美しいことを目の前にして、僕はその美しさに自分が納得するような理由付けをしてしまった。しかも、不純な道具的な思想を使って美しさを肉付けしていこうとする。僕は改めて傲慢だなとも思ったし、帰りの道中で僕はただただ自分が情けなくなってしまった。


帰りの電車でヘッドホンから1曲が流れて来る。

あの時僕は彼女に恋をして
同じ理由で彼女を嫌いになった
抱きしめた時と反対の手順で
ほどけてく腕は少しの熱を残した

愛情と友情
曖昧な現状
現実と理想
抱きしめよう両方

失うことを恐れて
わかりあう日を求めて
そんな事を繰り返してる
そんな事を繰り返してる

たまらなく君を愛してる
また たまらなく君が嫌になる
でも たまらなく君を愛してるよ
天使と悪魔のハイブリッド

アナログフィッシュ『Hybrid』(2011)

何だか僕は正しくそこで紡ぎ出される時間が「失うことを恐れて」考えて理由付けをしているに過ぎないのではないかとはたと気付かされる。これは先日から何回も書いている自分から零れる時間というものに対する恐怖そのものである。その時間と「わかりあう日を求めて」僕は色々と考えてしまうのかもしれないと思った。

たまらなく僕は愛してるのに、言葉でそれを補完しようとするのがたまらなく嫌になる。だけれども愛している気持ちには変わりはない。もしかしたら「好き」という感情だけでは「好き」とはならないのではないかとこの曲を聞いて感じた。またまた言葉を弄するならば、二項対立の下支えになっているその分母のどちらら側に立つのかということなのかもしれない。

さて、書くのはここまでにしよう。


とにかくだ。僕は「好き」なことをどうも素直に「好き」と言えない。だから昨日のあの瞬間、あの時間にも素直に「好き」と言えなかったのが僕は悔しくてたまらない。

いいじゃねえか、「好き」に具体的な理由なんか無くても。

「好き」だから「好き」なんだよ。

それで充分な気もするという話さね。

よしなに。





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