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雑感記録(194)

【中平卓馬覚書】


今日は国立近代美術館へ行き、中平卓馬の写真を見てきた。

僕は過去の記録で中平卓馬については何度か書いている。実際に写真集も持っており、時たまパラパラ捲る訳だが、実際に作品に触れるのはこれが実は初めてである。

3連休だからどこかへ散歩しようと思っていて、何かいい展示がないか調べていたら、なんと!偶然にも!この特設展が開催されていることを知る。これは見に行かねばなるまいと思い、夜な夜なインターネットでチケット予約をして見に行ってきた訳だ。

散歩がてら行こうと思ったので朝早く起きて、以前から気になっていた上島珈琲店へ行ってきた。ま、チェーン店だから敷居はそんなに高くないから気軽に入って行ったんだけれども、とにかくそこでモーニングを食べ歩いて向かった。思いのほか早く着いてしまい、開館15分前に到着。しかし、僕と同じように「混雑を防ぐため朝イチで来る」という人が多く、既に人が並んでいた。

僕は幸いにもインターネットのチケットを購入済みだったので、その列に並ぶ事無くスムーズに入館することができた。しかし、それでも人は多い。やっぱり都会の美術館というのはどうも人が多い。仕方ないことではあると常々思うが、なんだかなあと思ってしまう。げんなりした気分で入館し、コインロッカーに荷物を…と財布を取出し小銭が無いことに気付く。最悪だ。リュックを背負ったまま展示を見ることにした。


僕は個人的に国立近代美術館の展示の仕方が凄く好きで、かなりスペースがゆったり見れるようになっているのが有難かった。これは展示作品にもよるのだろうけれども…。ゲルハルト・リヒター展ほど酷かったものは無かったが…。あれはあそこでやるべきじゃなかったなとずっと思っている。インスタレーションが無い分、ゆったりと見て回ることが出来た。

中平卓馬の写真は基本的に雑誌の『アサヒグラフ』に掲載されていた写真が多く、雑誌も多く展示されているという点に関しても非常に良かった。僕は文学畑の人間であるから、本があるとやっぱり愉しくなる。それに中平卓馬が書いた文章が載った雑誌が数多くあったことも良かった。

実は中々、中平卓馬の文章を読める機会というのはそれほどない。今、新刊で購入できるのは『なぜ、植物図鑑か』ぐらいではないだろうか。初期の中平卓馬の文章を読むことは実際、ほぼ困難なのではないかと思われる。古本屋に行っても『決闘写真論』は置いてあるが、それ以外の中平卓馬の本、これはつまり写真集以外の本はお目に掛かったことがない。

こういう機会がないと中々、中平卓馬単体での文章が読めないので、非常に良い経験をさせてもらった。だから僕は雑誌の前に10分ぐらい棒立ちしてずっと文章を読んでいたりもした。しかし、どうも人が多くて仕方がない。こういう時に速読できればなと思うのだけれども、思うだけで速読できるようになることについてはかなり抵抗がある。僕は読書に時間性を介入させたくない。

それで、文章を読んでいくのだけれども、何と言うかこの時代の写真家の考えていることはなまじ変な批評よりも圧倒的に考えていることのレヴェルが高いと僕は個人的に思った。都市と人との関係性、被写体と数字の関係性、写すことと写されることの困難…挙げればキリはないのだが、視点がとにかく面白い。

恐らくだけれども、文藝批評家は言葉で哲学をするが、写真家は写真で哲学をする。間違いなくそうだ。

以前、柄谷行人の対談集を引用したのだけれども、その時は「哲学することは言葉について考えることだ」というように言っていた。それが柄谷行人にとっては文学がその対象となっていた。中平卓馬の場合は「哲学することは写真について考えることだ」ということを今日の展示を見て痛感する。写真も言ってしまえば1つの言語であると僕は思っている人間なので、個人的にこの考えは間違えていないと信じたいところではある。


写真を見ていく中で、凄く感じることが色々あった。まず以て感じたのは写真というある種、被写体が固定されてしまっているのにも関わらず、中平卓馬の撮る写真は悉く躍動感が凄い。どう表現すればいいか、実は小1時間ぐらい考えているのだが…。何と言うか、写真を見ると何か物語が始まりそうな気がするのだ。僕等から向かう前に、写真の方から僕等にやって来る。魔法の力?みたいなのを常に感じながら見ていた。

僕は写真についてのド素人だから、技術的なことはさっぱり分からないけれども、やっぱりモノクロ写真っていうのは大きいんじゃないかと詮索してみたりする。モノクロの場合だと陰翳がハッキリしているので見る側としてもインパクトが当然あるのだと思う。それに僕等は一応、色のついた世界を見ている訳なのだから、ある意味でモノクロは自然じゃない。そういった所で特別な感覚になるのかもしれない。

しかし、これだけで躍動感がある、何か物語が始まる予感というのは説明は出来ていないような気がする。これは畢竟するに撮影技術とか被写体の問題なのかなとも思ってみたりする。僕は『夜』っていう写真が凄く良くてずっと見ていたんだけれども、これが本当に凄かった(写真は今回撮ってません。あんまり美術館の作品の写真とか撮らない主義なので)。

そこに映し出されているのは言葉で表現するなら、「車」それだけだ。それ以外の何物でもない。でも、その車が写真の中のライトに照らされて、陰翳の中で命を吹き込まれたようにしている。今にもこの写真から出てきて走り出してもおかしくない。これは構図なのか?はたまた陰翳の問題なのか?どう考えても僕にはさっぱりだった。

僕はそこから想像する。

この車はきっと夜の街道を走っているに違いない。この車の形だと運転している人はきっと外国人だろう。あの街灯に下にある影は恐らく女性だ。どこか退屈そうに立っている。これは腰に手をあてがって道路を見ている。もしかしたら、この車が彼女を迎えに来たのかもしれない。いや、待てよ。彼女の頭上には信号らしき影がある。ただ信号を待っているだけなのか?いやいや、信号の手前に立っているのだから…云々。

とまあこんな感じで物語が僕の中で始まっている。それは結局受け手側の感じ方によるものだけれども、要はその1枚の写真の中にもあらゆる物語の種が潜んでいる。そこから可能性を広げて僕は僕の物語を組み立てた。それが中平卓馬の想定しているものと異なっている。というよりも、彼らはそんな意図で撮ってるかどうかも分からない(多分、単純に写真家は撮りたいから撮っているのであって、こんな感じで撮っているかなんて僕の勝手な想像だ)。あらゆる方向へあらゆる物語の可能性を孕んだ写真だった。


僕が中平卓馬の写真を好きなのは主にこの点だ。つまり、諸力の散乱した写真であるということである。映し出されたもの全てがあらゆる方向へ力を放っていて、それが僕等見る側の諸力を触発し、僕等にあらゆる可能性が広がることを教えてくれるという点にある。これは森山大道の写真にも同様のことが言える。だから僕は森山大道の写真も好きである。

例えば、報道写真とか戦争写真、ロバート・キャパとかそうなんだけれども、別に好きなんだけれどもワクワクはしない。その事実を伝えるという点に於いては説得力はあるが僕等の想像力というか、諸力は刺激されない。「なるほどな…」と感心して終わってしまうような感じがしてならない。

というか、僕が好きな写真というのは基本的にそう言うものが多い気がする。写真を見ていると、「今にも何かが起こりそうな予感がする」「写し出されているもの全てが魂を持ってこちらにやって来る」そういう写真が好きなのかもしれない。些か変な表現にはなってしまうのだが、生きて息づいている写真が僕は好きなのかもしれない。

中平卓馬を初めとして、森山大道も木村伊兵衛も、ソール・ライターも…。って書いといて実はそんなに写真家を知らないんだけれども、でも彼らの写真は写真そのものが生命を持っている気がする。何だか紋切型みたいな表現で恥ずかしいが、何だかそういうのが今回の展示でハッキリと自身の肌感で感じることが出来た。

そういえば、森山大道が出たついでに話をしておくと、森山大道と中平卓馬の対談とかも中々面白い。これは森山大道の写真集である『写真よさようなら』の巻末に収録されているので興味があればぜひ読んで欲しい所ではある。あとは…何だったかな…森山大道の対談集でもう1冊…忘れてしまった。

やはり、中平卓馬を語る上では森山大道は重要人物であるように思われて仕方がない。森山大道の写真も中々にインパクトがあって好きだ。久々に写真集を見返して見ようかなと展示を見ながら考えたりした。


それで僕は展示を順に見ていき、まあこれは当然のことなのだが、写真がモノクロからカラーに変わる過渡期みたいな所にぶち当たる。しかし、これもまたどうも不思議で、カラー写真になった途端に躍動感が一気に消えてしまった気がしてならない。何と言うか、向こうからやって来る何かが薄れてしまったような気がしてならない。

それはどうしてだろうとぐるぐる歩きながら、そして展示を見ながら考える。物語性も何だか、「そこに写っているものはそう読み解く」みたいなレールが敷かれてしまっているような感覚に陥っる。それが感覚で何となく分かる。別にカラーだからとかモノクロだからとか関係ないかもしれないけれども、色が付いた途端に陳腐な形にしか僕には受け取れなかった。

僕は別にモノクロ写真に優位性があるとか、そういうことを言いたい訳ではない。自分の好みも…そりゃあるだろうけれども、そうじゃない何かがある。これを言語化出来ないことが凄く悔しい。カラー写真の中にもいい写真は当然にあって、「うわ、この写真いいな」って思ったのだけれども、それ以上のことが湧き出てこない。

モノクロ写真の場合、色がない分、どこか自分で補わなければならないということで自然とそれを言葉で行うから「向こうから何かがやって来る」という感覚になるのではないか?カラー写真だと僕等が普段見ている映像と同じ色(厳密に言えば異なる訳だが…)でそれがそのものであると認識できてしまうからこそ、言葉で補う必要性がそこまで無いからこそ「向こうから何かがやって来る」という感覚が薄れてしまうのではないかと考えてみたりもする。

別にカラー写真でもガツンと来るものはある。木村伊兵衛の『パリ残像』なんかは全部カラーだけれどもどこか違う。でも、これ確実に違うなっていうのが分かるのは、木村伊兵衛とかソール・ライターの写真とかは最初に「美しい」が先行している気がする。これはあくまで僕の話でね。そこに映し出されている光景にある「美しさ」が僕を覆う。でも、中平卓馬とか森山大道の写真はその光景の「美しさ」にやられる訳では決してない。「ん?」という所から始まる。言葉で表現できない何かモヤっとした所から彼らの写真は始まる。

これは好きだから依怙贔屓みたいな感じで書いているという訳では決してない。本当に今日の展示を見てつくづくそれを思い知らされたのである。後年の中平卓馬の特にカラー写真はどうも僕には受け入れがたいものであった。沖縄や奄美大島の写真が殆どカラー作品何だけれども、どうも自分の中でしっくりこない感覚。モヤモヤした感覚が続く。

それで最晩年の『ADIEU A X』になるとモノクロ写真に戻る。これが個人的には何か凄く良かった。「おお、中平卓馬だ!」って烏滸がましくも思ってしまった。「これだよ、これこれ!」みたいな感覚だ。実際に僕は『ADIEU A X』は写真集を持っているので時たまパラパラするのだが、うん、やはり最高なんだなこれが。それを実際の写真で見れたのはラッキーだった。


以上が今日の展示を見て感じたことである。写真について言葉で語ることは些かナンセンスなことなのかもしれない。写真は言葉とは疎遠であると。しかし、今日の展示で写真から誘発される言葉があるということを改めて感じることが出来た。

僕たちは何か物を考える時、あるいは何かを見た時、そこに何があるかと言葉で自分の内で考えて言葉を紡ぐ。しかし、中平卓馬の写真を見ていると自分で言葉を考えるというより、向こう側から自然にやって来る。僕の言葉を考える考えない以前の所で向こうからやって来るのである。これは面白い経験である。

まだまだ開催中なのでぜひ行ってみて欲しい。4月7日までらしい。ちなみに補足情報として1つ。図録を購入したい人が居たら、3月に入ってから行くことをオススメする。現段階ではwebでの予約注文となってしまう。面倒な人は3月くらいを目途に行ってみるといいかもしれない。

そんな他愛もない話さ。

よしなに。


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