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雑感記録(152)

【古本の憂鬱】


今日も昼休みに神保町で古本屋を巡っていた。僕の最近のお気に入り書店は玉英堂書店さんである。古本祭りに行ってから後藤明生を沢山購入し、今も実は後藤明生の作品に対する熱が冷めていない。実際その時に購入した本はちょこちょこ読んではいるものの、完読するまでには至っていない。ただ僕には所謂「蒐集癖」というのもあり、本を集めることも好きなのである。それで後藤明生の作品を今は躍起になって蒐集している。

神保町には皆さんもご存じだろうが、至る場所に古本屋がある。それを1日で全てを見て回ることは困難である。それこそ毎日通うぐらいの根性がないと見て回れない。僕は昼休みを利用して色々と散策している。古本屋巡りで何が1番の困難かというと、例えば「この作家のこの作品が欲しい」とピンポイントで探しても大概見当たらないという所にある。沢山の本に溢れている場所でも自分が求めている本と出合える確率というのは低いのだ。

それで僕も後藤明生という作家の作品を探しに歩く訳だが見当たらない。仮に見つかったとしても既に保有していることが多い。先週の昼休みにたまたま玉英堂書店さんの店頭に黒井千次の本が置いてあり、「あ、何となくだけれどもここなら置いてありそう」と思い入店してみたのが正解だった。入ると後藤明生の作品が結構置いてある。しかも、僕が所有していない作品集がわりと置いてある。

無論、元々所有している本も置いてある訳だが、それ以上に僕が所有していない本が数多く置かれていた。これは!と興奮するのだが、ここで第2の問題にぶち当たる。それは値段だ。大概、僕が所有している後藤明生の作品集を手に取って値段を見ると「まあ、2日昼飯我慢すれば買えるな」という値段帯なのだが、幸か不幸か僕が丁度所有していない作品集は「これは…厳しい…」という値段帯ばかりのものである。

僕はそこから毎日、何故かそこに並ぶ後藤明生を購入する訳でもないのに赴いている。毎日後藤明生の並ぶ書棚の前に立ち、取出し、パラパラ捲り、最後のページまで飛ばし値段を見て溜息をつく。毎日通ったところで値段が下がる訳でもないのに、何故か僕は毎日通っている。お店側からしたらいい迷惑だ。毎日来て、本を見て、溜息をついて何も購入しないで店を出て行く客なんてこの上もなく失礼である。すみません…。


今日も今日とて玉英堂書店さんへ赴き同じことを繰り返す。しかし、毎日何も買わずに店に来ていたら何だか申し訳ないような気持ちがして、何か見繕うかと思って本を購入した。

『ナラトロジー入門』に関しては11月12日に高円寺のBOOKOFFで購入したもので、最近ちょこちょこ中野重治論を書くその一助になればと思って読んでいる。今日購入したのは写真上の3冊である。カミュの手記『太陽の賛歌』『反抗の論理』、そして保坂和志の『途方に暮れて、人生論』である。

実は保坂和志の『途方に暮れて、人生論』については文庫版を既に持っている。文庫版は確か草思社から出ている。タイトルは1番最初のエッセーから取られており『人生を感じる時間』で出版されている。保坂和志の本はこの手のものが割とあるように思う。と言っても僕が知る限りでは『30歳までなんか生きるなと思っていた』も同じく草思社から『いつまでも考える、ひたすら考える』というタイトルで出版されている。『30歳…』の方は元々文庫版を所有していたが、単行本に関しては文庫化されていることを知らずに購入したので、読み進めていく中で「あれ、これ俺読んだことあるぞ」となり気が付いた。しかし、今回は承知のうえで購入した。

僕の雑感記録を読んでくれている稀有な方はお気づきかもしれないが、僕は保坂和志の作品が大好きである。小説は勿論のことながら、保坂和志の小説論とも小説とも言い難い中間地点にあるような作品が僕は大好きである。その数ある作品の中でも僕は『途方に暮れて、人生論』あるいは『人生を感じる時間』が実は1番好きなのである。

正直なことを言えば、保坂和志の作品は基本どれも好きで「これが1番だ」なんて言えないのだけれども、強いて言えばこの作品が飛びぬけて好きであるということである。何と言うかどこか心が詰まりそうになった時とか、それこそこうして書くことに行き詰った時、何か書きたいのだけれども書き出せない時に僕はある種の拠り所としてこの作品を読むことが多い。多分だけれども中野重治を除けば、保坂和志の作品は繰返して読む率が非常に高い。何回も何回も何回も読み返す作家である。

 たとえば、人が生きている主観的な時間は、楽しいことは短くあっという間に過ぎてしまい、苦しいことは長くいつまでも終わらない。酒を飲んで騒いでいる一晩は短く、歯の痛みに苦しむ一晩は朝が来ないのではないかと思うほどに長い。あるいは、気を紛らわす何も持たずに人を待っている時間の長さ。もちろん、そのすべてが人生の時間なわけだけれど、私には長く感じられる時間の方こそが人生の本質というか、〈人生の素顔〉のようなものではないかと思えるのだ。
 人生で用意されている時間はいつも長く退屈で、それを見ないために人は楽しいことを探しつづける。ディズニーランドの楽しさなんかはまさにそれで、あの演出された楽しさの中でみんなが笑っているのを見ると寒々としてくる。旅行に行っても、行った先でぼんやり景色を眺めているのならともかく、あちこち見て回らなければならないとしたら、「労働じゃないか」と思う。

保坂和志「人生を感じる時間」『途方に暮れて、人生論』
(草思社 2006年)P.9より引用

最後の箇所は結構強烈なのだが、でもあながち間違っていないような気もする。それは単純に僕がディズニーランドがあまり好きではないということにも起因するかもしれないが、この「労働じゃないか」という言葉が僕には物凄く響いた。僕も結構愉しみながら様々なことをやる訳だが「労働じゃないか」と感じてしまう場面というものに心当たりがある。

そう、正しくこれだ。これというのはつまり、こうしてnoteを書いているという行為そのものである。僕自身はこのnoteを書くことを愉しいと感じているし、こうやって頭の中に溢れてくる言葉をただただ好きなように書き連ねる行為は大好きである。しかし、時たま「今日は書かなければ」というある種の義務感で突き動かされて書き始めているという事実は正直ある。

だから僕は自分を騙して実は労働しているんじゃないか?家に帰ってきてまで労働しているんじゃないか?と思ってしまう訳だ。現にこうしてパソコンの画面と向き合いながら書いている訳で、そこに集中してしまっているからそこに流れる時間を無駄にしたくないという動きが働いているのではないかと思われる。現にこの引用のあとに保坂和志は続けてこんなことを言っている。

ワープロはモニターに集中してしまうために本当に、書くことを労働にしてしまう機械で、私は周囲との接触を知らず知らずのうちに遮断して、ただこの文章を打ち込んでいた。それはやっぱり、人生の時間を無駄にすることではないか。

保坂和志「人生を感じる時間」『途方に暮れて、人生論』
(草思社 2006年)P.12より引用

なるほど、これは非常に耳が痛い話だ。僕は実はnoteを書くとき、恥ずかしながらあらかじめ書きたいことなどをノートにボールペンでせかせか書き込み、それをこうしてパソコンで打っている。無論、パソコンで文章を打っている時に書きたいことも考えていること、ノートにメモ書きしたことや纏めたことがやっぱり違うんじゃないかなと思って違うことを打つことは頻繁にある。というか毎回だ。

今日のnoteも実際には後藤明生のエッセーの魅力について書こうと思って、紙のノートを纏めていたのだが、パソコンで打ち始めてみたら気が付けば全く違うことを書いている。だから今こうして書きながら実は僕が1番驚いている。しかし、こういうのが物凄く愉しい。何と言うか、これこそ人間なんじゃないかと思いながら書いている。これが本来的な書くという行為なのではないかとさえ思っている。


過去の記録で僕はことあるごとに話をするのだが、やっぱり僕等人間というものはあらゆる方向に対して力が働くものである。1つの中心点という所に向かって全諸力が集中すると、それは勿論時間の進み具合というものが異なる訳だ。所謂「愉しくて時間を忘れる」ということである。目的のある行為をすることはある種の危険を孕んでいるような気がする。人生を愉しむ、豊かに生きるという意味に於いて。

だから僕が今日は「後藤明生のエッセーの良さについて語る」という手書きのメモを起こしてしまったが故に、その目的から逃れるために僕はこうして何だか後藤明生とは関係のない保坂和志のことを延々と書いている訳である。ただ、僕はそれを意識しているかというと実は全くそうではない。「よし脱線させてやろう」という気概を以てして書いている訳では決してない。だから僕はこの文章全体の終りがどうなるか実は自分でもよく分かっていない。僕のnoteは大体いつもそうである。だから体力が尽きると同時に僕の文章も終わりを迎える。

そう言えば、いま脱線と書いて思い出したことがある。引用。

すでに示唆しようとつとめてきたように、この授業は、自己の権力という宿命にとらえられた言説を対象とするのであるから、実際問題として授業の方法は、そうした権力の裏をかき、権力をはぐらかすか、あるいは少なくともそれを弱めるための手段に関係する以外ありえない。そして私は、書いたり教えたりしながら、次第に確信するようになったのだが、このはぐらかしの方法の基本的操作はといえば、書くときは断章化であり、語る時は脱線、または貴重な両義性をもつ語を用いて言うなら、遠足=余談(excursion)である。それゆえ私は、この授業において互いに編みあわされてゆく発言と聴き取りが、母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たものとなることを望みたい。子供は、母親から遠ざかるかと思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪の中では、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要なのである。

ロラン・バルト『文学の記号学』
(みすず書房 1981年)P.52,53より引用

いつ思い返して見ても、母親と子供の比喩が秀逸である。つまりここで言いたいのは、簡単に言えば「諸力に従え」ということである。何か1つの中心点を措定し、尚且つ固定してしまうとそこにしか集中出来なくなってしまう。他の事、全く関係のない、それでいて少し掠っているようなものに眼を向けることで中心点の周囲を巡るような、恒星のような形で周回してそこの中心点を盛り上げるような形がベストなのではないだろうか。

僕は過去に「何もしない」という努力というような形で、敢えてこの社会で何もしないことの意義的なことを説いた。「何もしない」ということは実は難しい。人生の長い時間と向き合うということは、何もしない努力をするということなのではないかと今、ふと思ってみたりもする。無論、「何もしない」こと全てが良いことだとは思わないが、少なくとも働きすぎな世の中で今1度考えて見てもいいかもしれない。

そうすることで、中心点から敢えて外れて諸力に身を任せて見るという選択肢も重要な気がしてならない。それは人生という長い退屈な時間を過ごすうえで必要不可欠なように思えるし、このぐらいの心持で居れば苦しいことも乗り越えられるのではないのか…と書いていて実は自信がないのだが…。


疲れてきたので、最後にカミュの『太陽の賛歌』から引用して締めよう。この表現、なんか好き。

 素晴らしい沈黙の一瞬。人間たちは沈黙していた。だが世界のうたごえが湧きおこり、部屋の奥底に鎖でつながれていたぼくは、渇望するより先に満たされていた。永遠はすぐそこにある。そしてぼくは、それを希求していた。いまなら語ることができる。いったい自分が自分の存在をいつも感じられているということ以上によりよい祈願が果してあるのだろうか?いまぼくが希っているのは幸福になることではない。ただ、意識していられることだ。ひとは自分が世界から除外されたと信じている。だが、こうした身内の抵抗感が消えてなくなるには、黄金色の埃にまみれてオリーヴの木がすくっと立ち、朝の陽の光りを浴びて目も眩むような海岸があるだけでじゅうぶんなのだ。ぼくについても同じことだ。ぼくは可能性を自覚しているし、その可能性にはぼく自身が責任を負っているのだ。人生の一瞬、一瞬は、そのなかに奇蹟の価値と永遠の青春の相貌をひめている。

アルベール・カミュ『太陽の賛歌』
(新潮社 1962年)P.16,17より引用

「人生の一瞬、一瞬は、そのなかに奇蹟の価値と永遠の青春の相貌をひめている」

よしなに。


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