雑感記録(111)
【場末の死】
「今日は面談をするから少し待っててくれ。あと10分待ってくれ。」
そう言われたから僕はいつものように煙草を飲みにいつもの場所へ向かう。重い扉を開ける。空は灰色だった。雷が鳴る。パラパラと雨が降り出す。このぐらいの雨なら傘はいらんだろと煙草を胸ポケットから取り出す。しかし、いつ来てもここは変わらないつまらなさと安心感の狭間。ボロボロのベンチに腰掛ける。次第に雨は強くなる。
煙草を飲み終わり、さてこれから面談だとベンチから腰を上げる。雨は次第に強さを増してくる。早く店内に戻らねばと思ったが、すぐそこの距離を走るのも億劫だ。雨の中ゆっくり歩いた。何歩か進んでから、ふと足元が気になった。下へ眼をやると小さな塊が置かれていた。雨の中顔を地面に徐々に近づける。そこにあったのは死だった。
まだ生まれて間もない様子で、毛も生えそろっていない。薄い皮には何本もの紫色の筋が何本もある。大きな眼は皮で閉ざされ動かない。周囲には何もなく、ただ蟻1匹が右往左往している。時折雨粒が当たり、皮に弾かれスッと降りてゆく。微動だにしない。何事もないかのように置き去りにされている。何秒か眺めて店内へ戻る。
応接室は使用されていたので、簡易応接で面談をした。上半期の評価とそれに関する面談。僕は内心、「もう辞めるのだから何を言われても今更」という感じだった。日中、最終面接の結果のメールが来た。自分が行きたいと思っていたところには何とか内定を貰えた。それもかなりの高評価だったらしく、通常3次面接まであるらしいのだが、それをすっ飛ばして「ぜひ来てほしい」とのことだった。
そのメールを受け取ってからというものの、僕は気が気でなかった。無論、良い意味でだ。ただ、実はそこは行きたいところではあるものの第1希望ではなかった。第1希望はご縁がなかったらしい。仕方がない。人生そう上手くは出来ていない。それでも、結局自分が行きたいところであることは変わりがない。僕は銀行を辞める決心がついた。
目の前の上司は色々と話をしてくれる。随分とお世話になっているし、僕はその上司のことが嫌いじゃない。何なら大して出来ない僕のことを割と高く評価してくれているみたいだった。僕は何のために面談を受けているか分からなくなった。
ふと、上司と眼があった瞬間に足元のあれを思い出した。今もこうして話している間にも雨に打たれ続け、身を守る術も知らずにただ置き去りにされている。あの蟻は?大勢の軍勢を連れて群がっているんじゃないか。いや、もしかしたら大きな眼が見開かれているかもしれない。紫の筋に流れる液体が一斉に動き出しているかもしれない。様々な憶測が僕を装う。
「最近、係替えして俺はお前が結構営業に向いてるなあと思うんだけれども、どうだ?自分自身ではどう感じてる?」
いきなり話を振られたから答えに窮する。今の僕はそれどころではない。複雑なうねりの中で捻りだした言葉が「自分でもよく分かんないです」だった。それ以上に表現しうる言葉を僕はその時持ち合わせていなかった。僕はその瞬間に放棄したのだ。あらゆることを一瞬のうちに。
上司は真面目な顔してこちらを見る。表情がさらに僕から言葉を引き出させようと画策している。別に僕はあなたに話すことが嫌じゃない。それ以上に今はそのうねりの中にただ身を投じて、その流れるままにあらゆることを任せて楽になってしまいたいと思っているに過ぎない。一種の逃避行。
上司も話すことがなくなり面談が終る。時間にして10分ぐらいだった気がする。あくまで気がするだから、実際はよく分からない。簡易応接を出て僕は帰り支度を始める。スマホの電源を付け、1件のメールが来ていることを確認する。「ああ、またコイツか…」と思い無視する。
「お先に失礼します」と順繰りに声を掛けて行き、営業室を出ようというところで大きな雷の音。同時に雨の音も巨大さを増す。早く帰らねば。そして今後のことについて思案しなければなるまいとうねる、うねる。ただグルグルと駆け巡る。手元がおぼつかなくなる。傘を差しながら煙草を探している訳ではないのに。鞄からウォークマンとイヤホンを取出し、重い扉を再び開けた。
鞄から折り畳み傘を取出しさす。ただ歩く。耳元に流れる音に集中してただ黙々と歩き続ける。雨は強さを増すばかり。
しばらく歩いた後でふと忘れていたことに気づき、僕は支店へ引き返した。僕に向かって歩いてきた女性はきっと驚いたことだろう。僕は突然踵を返した訳なのだから、驚かない方がおかしな話だ。
まだ雨に打たれていた。
先程と変わらない光景がまだある。社用車の置かれている車庫に入り傘を畳む。置かれた用具入れからスコップと塵取りを手に取る。そしてまた対面する。動かない。あの時からそのままで、蟻だけが居ない。固めた頭の上に雨が降りしきる。僕も同じになりたかったのかも分からない。僕もその場末の一端になりたかったのかもしれない。しばらく共に雨に打たれる。
しかし、このまま雨に打たれ続けるのは寒い。きっとそうに違いない。スコップで僕は掬い上げ、丁寧に塵取りの上に乗せてあげる。そして僕は僕という存在の浅ましさに嫌悪感を抱く。生きていることは傲慢だ。生あるものによる、そこでついえてしまったものに対する冒涜。その軽さに僕は悲しみを抑えきれなかった。
暖かい所へ。暖かい所へ。僕は花壇へ向かう。雨が背中を殴打する。無心で土を掘る。しかし出てくるのは大きな石ばかり。場所を少しずらし、もう1度掘り返す。暖かい。塵取りの中を見る。
置かれたそれは微かに動いたように見えた。微かに残った生への執着か?生きるということの全てがそこに詰まっていたはずだ。僕はしばらく見つめる。その小さき者へただ畏怖の念を抱き、紫色の筋を辿る。停止している。その感触に生気を持たない。それはそこに居てどこかへ行ってしまった。
僕は場末を選んだ。僕が分かればそれでいい。でも、僕は分からない。ついぞ忘れて帰ろうとしたのだから。生あるものの傲慢を感じながら、塵取りから手のひらへ移し、ゆっくりと寝かせてあげる。「寝かせてあげる」?なんとまあ傲慢たることか!?僕は僕の生を呪う。
せめて最後くらいは暖かい場末で。この雨に濡れることなく、暖かな土の中で眠れ。僕が出来るのはこれが限界だ。それに僕はこうしている僕にほとほと嫌気がさしている。ああ、生きるとはなんと複雑なことか。
そこに落ちている木の枝を折る。小高い土に突き刺す。これは僕に対する戒めだ。場末で彼は僕を待っている。僕は場末に向かう。誰も触れない、大勢に触れられない。それでも僕はその場末に居たい。僕がもし落ちていくなら場末が良い。知らぬ存ぜぬ。少なくともそれを知る人が1人でも居ることでいい。そこにあったことを知る人間。
僕は場末を生きたい。
雨は止まない。この場末には雨が似合っている。足元に1匹の蟻。僕は踏みつぶして帰路へ着く。
よしなに。
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