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雑感記録(197)

【真面目はつらいよ】


ここ数日に渡り、自分の中でわりかし真面目な記録を書いている。

直近で言えば昨日になるが、中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』を援用し文学について語ってみたり。あるいは古井由吉の『招魂のささやき』から読書の時間性を考えてみたり。あるいは散歩から都市空間の公園という構造と、現在を生きる人々との構造は似通っているのではないかとか。谷川俊太郎の詩について、『杳子』や『昆虫図』について…。まあ、書き方の良し悪しはどうであれ、それなりに真面目に文章を書いているつもりではある。

前提として、これは再三に渡って書いていることだが、この雑感記録は自分自身が愉しむ為にある。誰かに読まれるという事は想定していない。しかし、自身が書かれたテクストは自分以外の誰かに読まれて初めて「作品」として成り立つと僕は考えている。だから正直に言うとすれば、僕が真面目に書いた文章が読まれないという事は悲しい。仕方のないことではあるのだけれども。それがある種、現実的な評価であるという事なのだから受け入れねばなるまい。だが、しかし…。

それで、少し冷静になって色々と考え、少し自分で調べてみることにした。

noteにはダッシュボードという機能?があり日次、週次、月次、年次単位で今まで書いた記録の閲覧数と「いいね」数を確認することが出来る。今回はそれを見ながら書いている訳なのだが、まあ、これが中々面白いというか、発見があって面白かったりする。

仮に「いいね」の数を1つの評価軸として措定した場合、見ていくと大概僕が力を抜いて書いている文章、テキトーに書いている文章がどうやら「いいね」が多い傾向にあるらしい。あと、これは面白かったのだが、自分が不快な思いをしたことに関する記録なんかも「いいね」が多い気がする。人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだと思わず感心してしまった。

しかし、やっぱり真面目に(かどうかは分からんが、少なくとも僕は真面目に書いているが)書いた文章が読まれないのはしんどいものがある。まあ、これが現実なんだなと改めて思い知らされる訳である。だからと言って僕は迎合するような文章など書きたくない。そんなもの書くようになってしまうぐらいならキッパリnoteから離れるし、書くことを辞める。最近はそんな悩みと向き合いながら書いている訳だ。結局僕も資本主義に汚染された人間なんだなと痛感している。


ところで、しばしば「真面目な奴が馬鹿を見る」と言われる。

僕が…と言いたい訳では決してないけれども、でもこういうことは考えてしまいたくなる。それぐらいに僕は弱い人間である。noteの周りを見渡してみれば、何というか「え、こんな大したことない内容でたやすく「いいね」貰えて、読まれてるのか?」って思うことが頻繁にある。今日もこの記録を書くためにログインして、たまたま目に入った記事を読んで、中身なんて申し訳ないけれども全く何の感慨もないのに「え、こんなに「いいね」されるんだ…」と感じた。まあ、僕が偉そうに言えたことじゃないけどね。リンク貼るので見て欲しい。

※断っておくが、だからと言ってこの記事を否定するつもりは微塵もない。

何だか日ごとに、自分の中で書くことが馬鹿らしくなってきていて、こんな中で延々と、「自分の為に」とは言いつつも嫌な思いをしながら書くのは違うんじゃないかと思い始めている。僕が偉そうに言えたことでは決してないし、別にこういう記事があっても僕がとやかく言う権利はない。しかし、この内容でこれだけ「いいね」が貰えてしまうというその事実に僕は恐怖し、落胆しているという事なのである。

最近は一応、それなりに毎日更新しつつも、実は心の中でこういう葛藤の中で言葉を綴っている。でも、悔しいけれども、「書きたい」という欲望はどう頑張っても抑えることが出来ない。何かを考えたりするとそれを書きたくなってしまう。謂わば「覚書的」な性質もこの記録にはある訳だけれども、文章化して整理したいという欲望に僕はいつも敵わない。しかし、悶々とした気持ちで書くのもまた何か違うような気がする。現在、僕は八方塞がりである。

そんな中で、昨日いつもの如く、昼休みに神保町を徘徊していたら通っている古本屋に深沢七郎の『生きているのはひまつぶし』が外の棚に置かれていた。僕は文庫版ではその本を所持しているが、生憎実家に置いてきてしまった。金額も200円とお手頃だったので購入して読み始める。

僕はいつもこの深沢七郎のどこか厭世的な考え方が凄く好きで、こうモヤモヤした時に読むと気持ちが晴れる。僕は自分のことを一面的にしか捉えられていないんだなということが痛感される。そういった意味で自分自身に対して新たな発見をすることが出来るのである。


深沢七郎を読んで、「真面目な奴が馬鹿を見る?そんなのアタリマエだよ。怠け者になろうぜ。」と言われているような気分になる。もう1つ、深沢七郎のエッセーで好きな作品がある。『怠惰の美学』である。

このエッセーでは日頃起きた事件や社会問題について深沢七郎がただ思ったことを延々と語る作品なのだが、これがまあエッジが効いていて面白い。例えばだけれども少し引用してみようか。

 『そういえば、小さい賞は断わったけど、文化勲章はいただいたという偉い作家のセンセイがいましたね。だいたい、日本人は特にそうだけど、賞をもらったからどうだ、こうだと思うんだね。なんでも賞をもらわなければいいものじゃない、賞をもらいさえすれば、それはいいものだと思っちゃうんですね。
 そういう考え方あるでしょう。これはおかしいね。いくら賞をもらわなくても、自分が見ていいものだと思えればそれでいい。賞がなければわからないような芸術だったら、そんな芸術はダメだね。日本人はとくにヘンだから、ナァーンか賞もらうと、よく見えてくるんだね。
 だから断わるということは、そういう考え方に対するいい教訓だと思うね。賞なんて奨励してるようで、実際はけなしてることだからね。誰がそれを選ぶかっていえば、人間が選ぶ。人間が選ぶことは、そこに必ずエコひいきや主観が入ることだからね。賞って、もらっても、もらわなくてもその性格がはっきりしてくるから面白いもんだね。(中略)
 断わるってことは、どんな理由でもいいから、賞なんてつまらぬものを、役立たなくするために、いいことだね。…(以下略)』

深沢七郎「芸術院賞なんてもらわないほうがいいね」
『怠惰の美学』(日藝出版 1972年)P.36,37

何というか、当たり前だと思っていることを「いや、それ違うんだよ」っていうことを真っ向から書いてくれるところが凄く気持ちが良い。この気持ちよさがどこから来るのか分からない。その言葉のリズムに拠る所が大きいのだけれども言っていることが良く言えば多角的な視点から捉えられているとも言えるし、悪く言えば斜に構えている。でも、凄く不思議と居心地が良くなる。何なのだろうか…。

彼の作品を読んでいると、こうして僕が「今まで真面目に書いていたんです」ということを書いてしまっていること自体、何かダサい。まあ、深沢七郎を引き合いに出すまでもなくダサかったけど。多分だけれども、人間てきっと真面目に生きちゃいけない気がするんだな。前回ぐらいから延々と書いているけど、その時間性の問題とも関わってくるような気がしている。

真面目に働く、真面目に考える、真面目に付き合う、真面目に…。なんかアホらしいことこの上ないという感じがしなくもない。というか、「真面目」って何だよとさえ思えてくる。いずれにしろ、深沢七郎を読んでいると、真面目にやってることが馬鹿らしくなり怠惰の方向へと進んでいきたくなる。大分心は軽くなるのだ。


結局ね、この記録を通して僕は何が言いたかったかというと、もう全てが馬鹿らしくなってしまったということ。どうせ大した内容でなくてもそれが多く読まれるってこと、つまりは数の問題。最終的にそこに行くんだから、僕が真面目にやったって何の意味もない。「良いものは良い」とは言え、それについて語る人間にも数が無ければ説得力がないこの世界で、書くことに意味を真面目に見出そうとする僕が馬鹿なんだと思う。

まあ、ただ書くことはやめられないんで、上手い具合に距離取りながら自分の為にもう書くしかないんだよな。……ハァ…。

よしなに。

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