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雑感記録(109)

【変わるものと変わらないもの】


僕は今の今まで、流されてここまで生きてきた。小さい頃から何だかんだで敷かれたレールの上に乗って来た。どこの学校へ行くとか、習い事は何をするとか、部活は何に入るとか…。言い出したらキリがない。最終的に自分の意志で決定してそこに辿り着くのだけれども、それは周囲の支えによるところが大きい。言い方を悪くするならば、「周囲に言われた通りにやってきたら案外うまく事が進んできた。」ということなのだろう。

僕は自分で自分の道を決めた試しがないように思う。周囲の反対を押し切ってでも「これをやりたいんだ!」というものがなかった。よく言えば「欲のない子」であり、悪く言えば「主体性がない子」である訳だ。今更それを変えようと思って行動しようとするが、長年身についてしまったクセというのか、そういったものは抜けきらない。自分が「こうしたい」よりも「周囲がどう思うか」がいつも優先されてしまう。

しかし、間違っていることも往往にしてある。周囲の言うとおりに、自分の目指していることを捨てて何となく生きてきてしまう。「周りがそう言ってんだから、何とかなるでしょ。」と。結局、自分がやりたいことを思う存分出来なくて「苦しい!」となって自分が間違えたと気づく。生きること、選択することというのはやはり難しい。自分がどうなってしまうかが怖くて結局何も出来なくなってしまう。


いきなり何でこんな書き出しから始めたのか。それは明日、僕は自分が初めて「ここで働きたい!」と思ったところの最終面接を迎えるからだ。意気込みと言ったら変だが、自分がこうして文章に残しておかないと今後銀行を辞めるということにどこか未練を残してしまいそうだと感じたからだ。明日の最終面接を気持ちよく、そして全力で迎えるための整理をしようと思ったのだろう。

もう1つ。先程、両親に「明日最終面接で、受かったら銀行を辞めてそこへ行きたい。」という意志表示を初めてしたということも書こうと思った要因だろう。両親とは本当に仲が良い。とりわけ、父親とは仲が良く小さなことから大きなことまでよく相談に乗って貰っていた。しかし、転職活動していることは伝えていたが、どこを受けて自分が何をしたいかについては伝えていなかった。

最終面接前日にそういった話を飯を食べながら話をした。自分がどう考えてているか、これまでに何を考えていたかを延々と話した。両親は黙って聞いていた。沈黙が怖かったが、父親が一言「まあ、お前の好きにしたらいいんじゃない。もうガキじゃねえんだから。」と予想はしていた答えではあったが、実際耳にするとこそばゆい気持ちになる。色々なことに踏ん切りが付けられそうだ。


僕は結構腰が重いタイプの人間だ。新しいことや面白そうなことがあっても身体が先に動くということはない。まず以て頭で考えて1人悶々としながら、「ああ、こういうことね」みたいな形で自分を納得させて、騙しながらこれまで生きてきた人間だ。

「考えること」と「行動すること」のこのバランスが重要なのだろうが、僕の場合は考えることに比重が置かれている。何かを始めるにもまずは色々とあれこれ考えてしまい、結局袋小路の中に居てぐるぐる回っている。何というか、よくこんな例えがあるが「海の浅瀬で足首まで海に浸かっただけで、『俺は海を知っている』と豪語するようなもの」だと。

何も行動せずに頭で考えただけで、「俺はその物事の全てを知った」みたいな感じに僕は成り下がってしまった。どこかの誰それがこういうこと言っているからこうだ、これはつまりこういうことで…と勝手に頭の中で想像し論理をこねくり回して上から眺めているに過ぎない。

よく言えば、僕は衝動的に行動することが出来ない。まず以てしっかりと自分の中のもう1人、あるいは何人かの僕という他人と協議を重ねてから行動する。「ええい、やってしまえ!」ということは性格的にか、はたまた性質的にか、僕には難しいことだった。

しかし、この転職活動については正直、考えるよりも先に動いた。自分でも驚きを隠せないでいる。今までの僕からしたら考えられない。どうして衝動的に動くことが出来たかを冷静に自分自身で分析しようと試みたが無理な話だ。衝動に理由などない。その時の心の動きに任せて身体を動かしているに過ぎないのだから、今更理由付けした所で何にもなりはしない。


ある意味でこうして書くことで僕の衝動的な行動を正当化しようとしているのかもしれない。段々そんな気もしてきた。これを良しとするかは別としてだ。

ただ1つ言えることは、行動しないと分からないことが数多くある。考えることも重要だが、行動することも重要だ。何当たり前のこと言ってんだ!と言われてしまえばそれまでだが、しかし僕にとっては大きな1歩だ。

アームストロングは「That's one small step for a man, one giant leap for mankind.」と言ったが、正しく僕にとってのということになる訳だ。世間からしたら僕の1歩は小さいが、僕の世界からしたら偉大な1歩な訳で…。誰が何と言おうとこれは覆らないことである。

多分だけれども1番良い(?)のは「行動しながら考える」「考えながら行動する」ということなのだろう。言葉で簡単に表現できてしまうが、実際にそれを遂行しようとすると僕にとっては難しい。読書をし続けていることのある種の弊害とでも表現すればいいのだろうか?読書は考えることに特化しているが、行動に移すことはあまり向いていないらしい。

そう考えると、プロレタリア文学を牽引していた作家は改めて凄いなと思わされる。彼らは行動し、かつ文学で考えるという行為を日々続けてきた訳だ。留置場に入れられ「転向」するものも居たが、そういった中でも書き続けた中野重治はやはり凄い…と関係ない話ではあるが。


経験に勝る知はない。これは正しくそうだなと思う。行動に移したことで見えてくるものは数多くあったし、考えることも数多くあった。自身が置かれている立場や、今自分自身がしている仕事の意義。労働とは何か?金を稼ぐとは?本当にやりたいことは?自分が興味のあることは?……挙げればキリはないがとにかく動きながら考え、そして考えながら動いたように思える。そんな1年間だった気がする。

1度仕事に就くと、自分が今まで仕事で何をして来て、何を感じ、どう問題解決に当たったのかを考えることをしなくなる。それはただの「仕事」という言葉に全て集約されてしまう。良いことも悪いことも辛いことも愉しかったことも全てが「仕事」であると。

しかし、こういう機会に僕はそれを改めて振り返り、今まで何をしてきたか棚卸ししたお陰で自分自身という存在が分かりかけてきた。そうして、自分自身の中で変わったこと、そして変わらないものを改めて認識することが出来た。

受かるか受からないかは置いておくとしても、自分自身を見返す大きな機会になったことは間違えのない事実である。もし、自分を変えたいと思っている人が居たら、転職活動を勧めることはしないけれども、今1度自分の仕事を振返ってみることは重要であると思う。悲しいことに、人生の大半は「仕事」で覆いつくされている訳だから、そこを辞める辞めないにしろ見直すことは必要だとつくづく感じた。


衝動的に書いてしまったが、書きながら考えられた。これもnoteを続けているお陰なのかもしれない。書くことは止められない。

よしなに。



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