見出し画像

雑感記録(256)

【名言厨にご用心】


世の中には言葉が氾濫している。昨日僕は「一億総作家社会」と言った訳だが、それは詰まるところ同時に「言葉が氾濫する」ということも暗に示唆しているような気がしてならない。そして言葉がより消費的な活動を自発的に行っているような、そんな気配するら感じてしまう。

自然というものは使えば使うほど摩耗する。言葉も僕は同じだと思っていて、常に新語・流行語が生まれるということはその都度都度、時世に応じた言葉と言うものが出てくる。それは意図せずとも勝手に出てくる。自然その物のような気がしている。だが、その一方で「死語」と呼ばれるように使われなくなった言葉、でもその残滓は存在しているということはある訳だ。

それを考えてみた時に、僕はふと「名言」と言われるものが不思議なように見えてきたのだ。

「名言」というと、時代を問わず、我々の心を動かし勇気づける言葉である。と僕はここで定義づけをしてしまった訳だが、ハッキリ言えば単純に生存競争に勝ち残った言葉である。言葉という「自然」の中を勝ち抜いてきた言葉である。雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、そして歴史の重みにも負けなかった堂々たる言葉なのである。

僕は「後に戻ることで前に進もうとする」という言葉に触発され、結局後退を続けてばかりなのだが、しかしその何十年、ないしは何百年、何千年と時を経てここまで来ている言葉はやはり重みが違う。というか、背負っている物のスケールが異なる訳だ。

何物にも「耐用年数」って言うものがあるでしょう。例えば木造建築とかなら大体24年とか22年とか。まあ、これは目的とか用途別によって年数が変わってくるから何ともだけれども…。鉄筋コンクリートとかだったら最長で50年ぐらいとかかな。でも、言ってしまえばせいぜい50年だ。厳密にはこれらは「会計上」つまりは減価償却する上での耐用年数になる訳だ。言ってしまえばこれが0になった途端に価値はなくなる。

もし、言葉に耐用年数なるものがあるとしたら…と僕は考えてしまう。言葉にも何か有効期限みたいなものがあって、それを過ぎたら別に使えないことは無いけど機能しないよみたいな…。何だかおかしな話だ。でも事実そうなっている部分もある訳でしょう。例えば、皆さんお馴染みの「古文」なんてものは最たる例だ。使えないことは無いけど、でももう今じゃ使わないということである。


さて、僕が書きたいのは別にこんな話ではない。少しイラっとした話。

SNSを最近眺めていて、特にshort動画と呼ばれるコンテンツ。TikTokをはじめとしてYouTubeとか、Instagramも。所謂「縦型動画」の流行である。僕も実際それを無意識的に見てしまうことがあり、洗脳されているのだなと思うと哀しくなってしまうのである。ただ、面白いなと思うのは結構言葉が多く散りばめられているということである。

短いせいぜい5秒から30秒という動画の中で、言葉が至る所に散りばめられている。それで大概その動画は自己啓発系である。僕はなんかそれを見て物凄く最悪の気分になる訳だ。何だか薄っぺらいような言葉ばかりを上手い具合に並べ立てて「大丈夫!元気出せよ!」みたいな感じで。「私、あなたに寄り添ってますよ」系のものが多い。かと思えば、何だか斜に構えたような考え方を文字に起こして「こうした方が世の中上手く生きていけるよ」みたいなことを偉そうに言っている人も居る。

まあ、そんなのは無視しておけばどうとでもなるので良いのだが、僕が1番腹立たしいなと思うのは、過去の所謂「名言」と呼ばれるものを自分の都合に合わせて解釈して、「ほら、昔の偉い人もこう言ってるよ。大丈夫。」って言ってることに何だか無性に腹が立った。

単純にまず以て、そういう人たちの「名言」なるその言葉の重み、ひいては歴史の重みを軽んじているような気がする。だって、それをせいぜい5秒から30秒の動画で説明しちゃうんでしょう?まだ「100分de名著」の方が幾分かマシだね。それに、別に解釈するのは勝手だから良いんだけれども、人って弱い生き物だから自分の都合のいい様に捉えるんだよ。特に言葉って言うものは。だから、下手したら行くとこまで行ってしまえば、プロパガンダになってしまう可能性だってある訳だよね。

あと、これは僕は結構大事だと思っているんだけれども、どうしてその言葉を心に留めようとするのかなって。「名言」をスラスラと言えてしまう人を見ると僕は「ああ、何か薄っぺらい人なのかな」って思ってしまう。僕はね、そもそも物覚えが良い人間ではないからすぐ忘れる。勿論、印象に残ったことは一字一句全く同じに覚えているってことは決してないけれども、それなりに覚えている。だけれども、その「言葉」だけ覚えていたって何の意味もないと思うんだ。

じゃあ、その言葉の意味や生まれた背景を覚える?そんな馬鹿な話あるか。その「名言」に出会ったのは自分自身以外の何物でもなくて、お前がどう感じたかを話さなきゃ意味ないだろう。それにこの言葉が生まれた背景を語るというのは無意味だ。だってもしかしたら、その一説は便所に座って考えられた言葉かもしれない。あるいは恋人と殴り合いの喧嘩をしている時に思いついたのかもしれない。

そんなこと言い出したらキリがない訳だが、しかし可能性としては十分にありうるはずだ。だから、僕はずっと思っているんだけど「名言」をスラスラ言える奴に良い奴はいない。それはその言葉が持ちうる歴史、あるいは「自然」と言うものを無視しているからだ。


確かに、言葉で救われるということはある。事実、僕も何度救われて来たか分からない。数多くの詩や、数多くの小説、哲学などに救われて来た。だが、僕はそれを押し付けようとは思わない。こういうnoteの場では「引用」という形で書いて、その言葉についてやいのやいの書いている訳だが、それで誰かを動かしてやろうとか、これで皆を救ってやろうなどという気は一切ない。全く以てない。そんな烏滸がましいこと出来る訳無いだろ。

SNSでは何だか語り掛けるようにして、というかそもそも誰かに見られるという前提で動いているのだから、そりゃそうなんだが…。そういう所でその「名言」というものを半ば権力のようにして振りかざしているのが気に喰わない。発信している人はそうではないのだろうが、しかし「名言」というものを安売りしすぎではないだろうか。

と!ここまで!書いておいて!なんだが!

僕も結局!同類なんだな!とここまで書いてただ哀しくなる!

あゝ、なんと哀しき哉!

よしなに。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?