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雑感記録(255)

【肩書に胡坐をかく人】


様々な文章を、様々な所で読んでいるとやはり自分がどうも下手くそな文章を書いている気になる。事実、僕には美味い文章を書くことは出来ていない訳で、純粋にガツンと響くような文章を書ける人を羨ましいと思う。ただ、羨ましいと思っているだけでは永遠に美味い文章を書けるということは決してないので、こうして試行錯誤の中でnoteを書いている。今日もそんな1日である。

それで、今日も朝、仕事で問合せの対応をしていたのだが、どうも分かりにくい文章ばかりである。これについては以前の記録で『文章のTPO』と題して仔細に検討した訳だが、今日も今日で同様な文章が送られて来た。だが、その記録の時とはまた違った文章であった。

文章の長さ的には短い。物理的には読むのに苦労しない長さだ。内容については…うむ…。理解できなくはないが、しかし…。もっと上手い書き方が合ったはずだとも僕には思えて仕方がない。だが、これはあくまで僕個人の受け取り方の問題であり、ここで僕がたった1人でやいのやいの騒いだところで意味はない。そこで先輩に共有してみたのだが、先輩も「何が言いたいのか分からない」ということだった。

結局、僕はその先輩に力を大いに借りて、何とか回答文を作成した。先輩と2人でああでもない、こうでもないと言いあいながらその質問の真意を探り「多分だけれどもこういうことなんじゃないのか」という結論に至り、上司に回答文を確認してもらった。しかし、この短い文章でこの人は何を伝えたかったのかと僕は不思議で堪らなかった。

僕は純粋に気になって、この人ってどんな人なんだろうと思って調べてみたのだが、どうやら自称ではあるが作家であり、ジャーナリストであり、評論家でもあるらしい。ふーんと思って見ていたが、何だか僕はそこに現実というか、ある種の哀しさみたいなものを感じてしまった。


今の時代、それこそ再三に渡って書いている訳だが、SNSなどの発達やZINEなどの発展に伴い「自分で簡単に発信できる時代」となったのである。それはそれで自己表現をする場所が拡大したという意味では非常に有難いことだし、嬉しい訳だが、それと同時に「作者」「作家」あるいは先の人のように「ジャーナリスト」「評論家」なども爆発的に増加した。

これはあくまで「自称」な訳で、公の場つまりは雑誌や本媒体、あるいはよりアカデミックな場所での功績を経てという今までスタンダードとされて来た制度を潜り抜けるような形で簡単に誰でもなれる時代になった。どこかの誰かは「一億総活躍社会」と言っていた訳だが、「一億総作家社会」とでも言えるような社会になっていると僕は感じている。

誰しもがSNSで少しでもバズったり、ちょっとでも有名になれば「俺は作家だ」ということが出来る。そんな感じが僕にはしてしまう。この状況が良い事か悪い事かということは置いておくとしても、ただ僕はこれに対し危機感を抱いている。これには様々な考えがあるだろう。少し具体化して話を書こう。

これは小説や文芸批評などをあくまで例にとって話を進める。

例えば、ひと昔前はスマホもパソコンも無かった時代。その時に「作家」となる為には雑誌という媒体が大きな決定権を持っていたように思う。これは今でも変わらないが、○○新人賞とか○○賞と呼ばれ、雑誌が所謂作品の発露の場として、また「作家」としての第1歩としての登竜門的なポジションにあったこと、あるいはあることは疑いの余地はない。

そして、そこに掲載するプロセスとして、様々な人に読まれる訳だ。それもプロと呼ばれるような作家たちから。専門にそれを扱っている人に読んで貰う訳なのだから、それなりにレヴェルの高い作品が要求される訳である。その難易度の高い選考を潜り抜けて初めて「作家」として活躍できるというような一応のロード・マップみたいなものは存在していた訳だ。

ところが、現在になると至る所で時間や場所を問わず、いつでもどこでも文章を書けるようになった。そして全世界の人がその作品に触れ、数多くの人の眼に付き、自身の作品は陽の目を浴びる。加えて今まで雑誌という場がある意味で「作家」生成の場であった訳だが、それが今度はSNSに移行する。単純に言えば、世界が一気に拡張されることになる。ありとあらゆる層に対して情報ないしは作品を発露することが出来る場が醸成された。

例えば、このnoteで言えば、「noteの記事が書籍化されました」というのが最たるものだと思う。過去の正規的なルートで行けば、何らかの書籍の媒体の選考を通じて選択され、揉まれ、闘いに生き残った者が「作家」となることが出来、そして次々に作品を発表することが出来る。1つの作品を生み出す為にもそれ相応の苦難と闘わねばならない。だが、今は「いいね」という評価による物差しによって全てが判断され、全てが決められていくのである。

詰まるところ、「大多数の読者による評価」か「その道のプロである専門家によるある種恣意的な評価」のどちらかによって作家に為れるかなれないかが変化してくるような気がしている。加えて、前者の方はどちらかと言うと僕が嫌っている自己啓発本の類やエッセー本、小説(とりわけ「大衆小説/娯楽小説」と呼ばれるもの)での類が多くなる。後者は圧倒的に小説(とりわけ「純文学」などと呼称されているもの)や批評(が今も明確に存在しているかは不明であるが…)といった所へと繋がっていくのだろう。

ここまでで僕が書きたかったことは、以下の3点である。

①「作家」になるまでのプロセスは現在と過去では異なる。現在ではSNSによる大多数の「いいね」による評価およびそれに伴うSNS記録での書籍化などにより「作家」となる。

②過去に於けるプロセスは所謂「叩き上げ」のようなイメージ。雑誌という狭き門での中で、その道のプロに読まれ、恣意的であるけれども選別され、のし上がっていき「作家」となる。

③傾向として、①の場合で「作家」となった人の出す本は自己啓発本やエッセー、所謂大衆小説と呼ばれるものが多い。また②の場合で「作家」となった人の出す本は所謂純文学と呼ばれるもの、評論と呼ばれるもの。


ここで話を段々と最初の方に戻して行きたい訳なのだが、これにより何が起きたかということを考えねばなるまい。

僕は先に「一億総作家社会」であると書いた。正しくこれについて考えねばなるまい。僕等は、これは僕も当然に含めて、こうしてSNSの媒体で様々に書いている訳だ。それで様々な記録を書いていると、「いいね」という指標によって僕等の作品は評価されることになる。その評価を常にコンスタントに取っている人はどことなく「売れている」いや「バズっている」という認識となっていき崇め奉られることとなる。

この「いいね」を付与された側の人間としては、それが1つの自身の作品に対する評価になる訳で、これが多くもらえると文章の良し悪しや、内容及び形式の良し悪しなどはお構いなしに「良い作品である」とまずは自分自身の中で勘違いを起こす。「俺は/私はこんだけ「いいね」を貰っている。ということは、俺は/私は良い記事を書いているに違いない」という状況が何回も続けば、それは「自分自身の実力だ」と勘違いしたくなくても、人間弱い生き物だからしてしまう。

「いいね」を数多く貰えるということは、それなりにその記事が読まれているということを表面上では示している。詰まるところ、「いいね」を気にすることなぞただの表層を愉しんでいるに過ぎない。まあ、そんな話はどうでも良い。いずれにしろ、それで勘違いして、「自分は文章で人を魅了している」と悦に浸ってしまう。それで調子づいて「作家」と自らを名乗り始める。何だか面白い現象だなと僕には思えて仕方がない。

というような書き方をしてしまうと、SNSのそういった人たちを否定していると思われてしまう。これは先に断っておこう。半分否定していて、半分肯定している。

そもそも、雑誌などという媒体が昔以上に力を持たなくなったのは言うまでもない。その証左に、『文藝春秋』などはネットで『文藝春秋オンライン』などもやっているではないか。『文藝春秋』程のブランドがあれば雑誌だけで十分なはずなのにだ。そういう所でもインターネットに頼らざるを得ない時代になっている訳なのだ。だから、順当に「作家」になろうと思ってもそもそも作品が自分の思うように出せないことや、選別されるというある種の危険性を孕んでいることになる。それだったら、こういうSNSを上手く活用して、作品を発表していく方がよっぽど利口である。何も本を出すことがゴールではないと僕は個人的に感じるところである。

だが、そうすると大勢の作品がSNS上に溢れる。飽和状態である。そこには魑魅魍魎が多岐に渡って存在する。今売れているような小説なんかよりもよっぽど良い作品を書く人も居れば、当然に腹の立つような文章しか書けない奴もいる。大概、そういう腹の立つような文章しか書けない奴に限って「俺は/私は作家です」とプロフィール欄に堂々と書いちゃう。それに「いいね」というボタンしかないのが僕は気に喰わない。YouTubeみたいにbadボタンも一緒にあればいいなと僕は思っている。これは昨日の記録でサラッと流したけれども、ヘーゲルの弁証法的なものである。アウフヘーベンするところによって初めて作品が作品足り得る訳であって、「いいね」だけで成立する作品何て面白くもなんともない。

つまり、僕はそのせいぜい「いいね」というプラスの側面だけを捉えて「俺は/私は良い文章が書ける」と錯覚し、傲慢にも自分自身が「作家」である、あるいはnoteだったらnoterと言うらしいが、そんなことを堂々と言えることをむしろ恥ずかしく思った方が良いんじゃないかと思う。というか、恐らくだけれども、本気で「作家」目指しているなら、こんな所じゃなくてそれこそ『新潮』とか『文學界』とか『文藝春秋』とかに応募すると思うんだよな。やはり本気でやるからには、恣意的な選考であるにせよ、その道のプロに読んで貰うという経験は大事なような気がする。

だから、一貫して僕はSNSで自称「作家」「評論家」「ジャーナリスト」とかいう人が嫌いだ。それはただ肩書に胡坐をかきたいだけのさもしい人間のすることだと僕は思っている。

勿論ね、SNSの中でも素晴らしい記録を残したり、面白いことを書いたり、実際に活動している人達というのはごまんと存在する。だけれども、そういう人たちに一貫しているのは「純粋にそれが好き。ただ語りたい。」という熱情以外の他でもない。僕はそういう記事を読むと心にグッとくる。ま、というかそういう人たちしかフォローしてないんだけれどもね。これがある意味でSNSの良いところであり、悪い所でもある。恣意的に悪意から目を背けることが出来るし、悪意として人を逆に退けてしまうことも出来る。うう…こわいこわい…。

ちなみに言うと、僕は自分自身のことを「作家」だとも思ったことは1ミリもない。加えて言うなら、僕はこうして延々とくだらないことを書いている訳で。こんなものは「作品」にすら値しない。それはただ「いいね」というもので評価され、肝心の「bad」が見えないからだ。だから、このnoteに記録されている数々のものは「作品」ではなく、ただの文字の羅列でしかない。それ以上でも以下でもないことは読んでくださる稀有な有難い皆さんには伝えておきたい。

僕が書いていることは唯の戯言ですし、僕はそこら辺の普通の人です。


それで、話は遠回りに遠回りを重ねて最初のメールに戻ってくる。

しかし、この文章は余りにも酷いなと思う訳だ。短くて端的なのは分かる。僕も出来ることならそういう文章を書きたいと思う人間である。ただ、唯一の問題は、1番言葉というものに真摯に向き合わなければならない「作家」という人間がそんな言葉に違和感を持たずしてどうする?と僕には思えて仕方が無かった。

だが、冷静に考えて、僕も僕で酷な人間だなとも思う訳だ。

「作家」だから日常的に文章が上手いとも限らない訳だ。こういう「問合せフォーム」となるとどう書いていいか分からなくなるということもあるかもしれない。小さな枠の中で、限られた文章を書くのだから神経を使って書いたものがもしかしたらそれだったのかもしれない。「作家」だから、というのは僕のただの願望と偏見であるに過ぎない。僕は求めすぎてしまったのかもしれない。

それに、これまでの事情を踏まえれば、お花畑万歳という所でのほほんとした場所で「作家」になっているかもしれない訳なのだから、そんなことを求めてしまう方が良くない。だが、これが所謂「叩き上げ」でという人ならちょっと話は変わってくるんだよなとも思ってみたりする。

そして、僕は思う。

「読者っていう立場は最高だな。上から目線で物言えるし…」

僕も肩書に胡坐をかいていたみたいだ。

よしなに。



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