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雑感記録(207)

【駄文の円環Part3】


今日は特段、書くことが無い。

これから書こうとしているのに、いきなり本末転倒なことから書き出す。これは先日の記録で再三に渡って書いているが、「書きたい」という欲望を抑えることが出来ない。しかしだ。何かをただ「書きたい」という事であるならば、こんな文章でなくてもいい筈である。主語があって目的語やら修飾語やら、色々とあってある種の制度に乗っ取った方法を使わずに書くことだっていい訳である。ただ「ああああああああああああああああああ」でもいい訳だし、「おひあshぢあyfすtdgggはh:おんbzびうh」とかでもいい訳だ。

それで今、試しに適当に打ってみたけど、どうも面白くない。

どうしてかなと考えてみるが、これは既に過去に答えを出している。つまり、僕にとって書くことは同時に考えることでもある。書いていると不思議と色々と湧き上がってくる。現にこうして何が何だか分からずに書き出して、せいぜい物の数百文字な訳だが、しかし、それでも書けているという事実はここに少なくとも存在している。先程の変な言葉を打つ時、別に何も頭には思い浮かばないし、「ただキーボードを打っている」というそれだけのことで、僕の頭の中は心同様、無に等しかった。

しばしば、最近ではスマホでメモを取る人が多いという。

これは「買い物メモ」も当然に含まれるだろうが、他にも職場でのメモがスマホに取って変わられる。僕からすると衝撃なのは、大学生の所謂大学ノートから段々とタブレットが主流になってきていることである。僕等の時代からノートパソコンで授業を聞いている奴も居たが、学生の殆どは紙のノートとシャーペンあるいはボールペンであった気がする。僕も当時はそうだった。今でもA4のノートは常に持ち歩いているが、最近は専らnoteにこうしてタイピングしながら考えることが多い。

そう考えると、最近の僕らの思考形態が変化してきているのでは?

どうなのだろう…。僕は分からない。別にそれで深い思考が出来るのならば構わない気もする。というよりも、自身の思考を留めておくそのパッケージと言うか、受け皿がただ変化しただけな訳で、それ程大したような問題には思えない。だが、人間存在の原初を辿れば当然にパソコンなどは存在しない。何なら言葉すらない訳だし、極限まで行けば人間存在そのものが危うくなるわけだが…それは戻り過ぎか…。

パソコンが誕生したのは1970年代位の話で、普及してから50年ぐらいしか経過していない。50年。数字で表現すれば「50年か、長いな…」となるかもしれないが、地球が誕生してからと考えるとほんの些細な、蚤のような時間である。だが我々はその時間に心身共に侵食されている訳だ。何とも我々はちっぽけな存在かね。馬鹿馬鹿しいったらありゃしないね。まあ、そんなパソコンが今はこうして人の思考にまで侵食している。………しかし、こう書いてみると怖いもんだねぇ~。


今って、当然に僕も含めてだけれども、パソコンやスマホが無かったら何も出来ない時代なんだよね。あらゆるものが手元の機械に詰まっていて、僕は何だかいつもその精神的貧しさに嫌悪感を抱くのね。これは過去の記録でも書いたけれども、「スマホの中に世界の全てが詰まっている」とお思いかね?僕はそんな世界なんて詰まらないし、嫌なことだね。スマホが主流になりだしたのは僕が記憶にある頃だと考えてみると、スマホはまだ登場してから10年ぐらい?だろう。いやいや、何だか情けなくなってくるな。

しかし、こう書いてみたものの、実際僕は今こうしてパソコンを利用して文章を書いている。それにスマホで可愛い姪っ子の写真が送られてきてそれを眺めたりと、色々と恩恵を受けている訳だ。僕だってパソコンやスマホが無い生活など想像も出来ない。ただ、だからと言ってこればっかりに囚われてもいけないということはいつも感じている。だから僕は散歩に行く。散歩の極意については以前の記録で書いたが、畢竟するに自己との対話が大切という話であり、スマホやパソコンのお陰でその時間が足りてないということだ。

パソコンやスマホのお陰でありとあらゆる情報に素早くアクセスすることが出来るようになった。そして僕らはそれと睨めっこしながら生活する。僕等もそれに慣れて、スマホですぐに情報を調べたり、何なら僕のようにSNSを利用して情報を提供することだって容易に出来てしまうのである。ただ、そうは言っても僕はその速度感にいつも歪みを感じている。

考える速度と書く速度ということを考えるとどうだろう。

実はね、ここまで書くのに4時間ぐらい掛かっている。この時間を多いと捉えるか少ないと捉えるかは各々に判断は任せるとして、いずれにしろせいぜい1900文字を書くのにすら4時間掛かる。だが、考える時間はそんな4時間なんて気にせず常に頭を働かし続けている。僕の考える速度、いや通常皆の考える速度は速い。スマホやパソコンで流れてくる情報の速さに慣れてしまっているから考える速度は速い。だが、その深度はどうかと言われると浅瀬より浅い。

つまりは、単純に僕の考える速さは速い(一般的に速いのだと思う)。ところがそれを言葉に変換すると時間が掛かる。しかも、言葉で置換しようとする運動にはそれをより深く考えさせるような、ある種そこに留まって「ちょっと待て!ちょっと待て!!」とこちらを制してくる。そうするとグルグル回る思考はゆっくりになろうとするが、既にこうしてパソコンで打っているのだから、思考の速度は堕ちない。ではこうして書かれる言葉は何か。

金魚すくい。

言葉というポイでその思考の速さの中から巧みに言葉を掬い上げる。……我ながら良い比喩表現だ…と書いてしまうことが些か恥な訳だが、いずれにしろ、僕がnoteでやっていることはそれだ。金魚すくいだ。頭から溢れてくる、飽和状態のカオスから言葉をかき集めてこうして書き上げること。断片的な僕の思考。僕は今、何を考えて、どんなことを言葉にしようというのか。自分でも分からない。だからこそ愉しいのである。


パソコンやスマホはその気にさせるのが本当に上手だ。

何か物事を調べて、問題を解決する。なるほど、問題を解けた快楽がそこにはある。しかし、そこに存在するのはやり方であり、自分自身の言葉で紡ぎだされたある何かではないことだけは確かである。置物の言葉をそのまま自分自身の言葉として、その気にさせてしまう。さも、自分が頑張りました!みたいな雰囲気があるが、その実はその気にならされているだけであって、パソコンやスマホが無かったらきっと何もできない。邪魔なプライドだけが虚勢を張り、肥大化していくに過ぎない。

僕は本を読む。

本は変わらない。そこが良い。これも過去の記録で散々書いているが、そこにある時間は変わらないのである。如何様にでもそれを捉える。ただ、少なくとも確実に言えることは、本を読むことが時間に抗う唯一の手段であるということだ。周囲はどんどんパソコンやスマホの情報伝達の速度の向上によって常に我々は変化にアンテナを張って居なければならない。常に前進を求められる。いや、もはや「前進あるのみ」なのだ。

しかし、前進して何になるというのだ。前進。そら大層立派なことだ。時代は進む。僕等を置き去りにしても容赦なく進む。時間は無慈悲である。僕等は過去に戻ることは出来ない。それを再び体験することなど出来ない。しかし、そういったことを唯一経験できるのが読書である。この流れる時代の間隙を砕くものこそ読書ではないのかと何だか変なことを考えてしまった訳よ。

だから僕は馬鹿みたいに本や芸術の話をしている訳。


何だか結局何を書きたいのかよく分からなくなってしまった。

しかし、今日はそれでいいのだ。

だって『駄文の円環』なのだから。

よしなに。






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