雑感記録(170)
【音楽回想録】
今日、朝から早起きして近くのイトーヨーカドー(正式名称は「ヨークフーズ」という所らしい!行って今日初めて知った!)へ行ってきた。1週間の食料を買いに開店と同時に店内に入り、狭い店舗の中をぐるぐる巡る。僕は包丁を使うのが面倒な人なので既にカットされている野菜を中心にいつも購入している。あれは便利だ。本当に。独り暮らししている身からすると非常に助かる。調理スペースもまともにないので野菜を切ることが難しいのだ(これは書いてみて思ったが、料理したくないただの言い訳である)。
それで色々と食材を買ってきて、冷蔵庫やら冷凍庫に片付け一息つきこの記録を記している。風は凄いが、太陽の光は暖かい。南向きの部屋を選択して良かったなと改めて思う。洗濯物も早く乾くし、ベランダが狭いから布団は干せないけれど太陽光が沢山入ってくるのでそれで充分な気がする。しかし、冷静に考えてこの時期は寒いから良いかもしれないが、これが夏になったらと想像すると…しない方が良かったかもしれない。
大学で独り暮らしする際、部屋探しの時に父親に口酸っぱく言われた。「夏、熱くても南側の部屋にしといた方がいいぞ。太陽の光があるだけで気分が晴れやかになる。」と。なるほど、確かにその通りだ。太陽の光が部屋に差し込むだけで違うなと思う。今回の部屋についても南側を選択したのにはこういう背景もあってのことだった。人間はどうやら少しでも自然の力に触れていないと腐ってしまうらしい。人工物に囲まれている東京、とりわけ都心では数少ない自然を感じられる瞬間でもある訳だ。
今、音楽を掛けながらこの記録を書いている。Instagramのストーリーには何個か投稿したのだが、浜田省吾のプレイリストを掛けながら書いている。これは先日の雑感記録でも実はちょっとばかし触れているのだが、やはり良い作品は時代を越えても良いものであると思う。
今日は少し浜田省吾のことも書きつつ、昨今の音楽に個人的に感じることを駄文に駄文を重ね書き連ねてみようと思う。
以前、僕は音楽遍歴みたいな形で記録を残したことがある。そこに少し触れた気がするが、邦楽について聞く曲やアーティストは母親の影響によるところが大きい。山下達郎も好きで聞くし、杉山清貴&オメガトライブとか(1986オメガトライブではない。ここ重要。)、尾崎豊とか米米クラブとか…。所謂「母親世代」つまりは現代の50代辺りの方々が主に脂の乗っていた時期に流れていた曲が邦楽の中では好きである。
浜田省吾も当然にその辺りで、僕の母親は入れ込んでいたらしい。詳しいことは知らないが。初めて聞いた曲は、ある種代名詞でもある『MONEY』であった。正直、曲調が何だか古いなと思った訳だが、何だか耳に残るという感触がした。僕はここから浜田省吾にハマっていったのかもしれない。声も結構好きな声である。
というか、1番凄いのはCDとライブの声が全く同じであるということである。アレンジはあるにしろ、CDそのままの声で歌われているので違和感なく聞けるというのが個人的には凄く良いなと思う。
曲調も良いのだが、やっぱり僕はストレートな歌詞が凄くいいなと思う。何と言うか、変に詩的じゃない所が凄く良いなと思うのである。これもどう表現したらいいのか分からないのだが、下手したら「なんだこの歌詞は?」ってなるのかもしれないのだけれども、「いや、良い歌詞だな」という所の真ん中をうまく渡っているような気がしてならないのである。試しに、『MONEY』から歌詞を引用してみよう。
何だかここだけ切り取ってみると怒りをぶつけている印象を受ける。最後の所なんて具体的な名前を出している訳である。「メルセデス」「プール付きのマンション」「ドン・ペリニヨン」「ブラウン管」…。単純に言葉から想像が容易い言葉が羅列される。故に上の「俺は何も信じない」などの言葉が成り立つのである。つまり、僕は音楽に詳しくはないがこういうのを何と言うのかよく知らないが、歌詞の纏まりが他の纏まりと密接に絡み合い1つの曲として成立しているということにあるのではないか。
ストーリー性?とでも言うのかな?そういうのが凄く単純であるがゆえに言葉がスンと落ちて来る。故に、単純であるからそれを聞く側も何となく自分の身に寄せて考えるということがし易いという状況が生まれるのではないかと僕は勝手に思っている。
これまた僕の勝手な想像だけれども、クラシックやJAZZの一部では歌詞というものが存在しない。単純に(という書き方は些か失礼な物言いではあるが…)楽器の出す音だけでその場を魅了するのである。これは演奏者の演奏技術が問われることになる。ところが、こういう歌謡曲のような場合はそこに「言葉」を乗せる訳である。少なくともそこには演奏者、歌手の思いというか意図は言葉にする以上は乗ってしまう。
ただ、楽器の演奏に合わせて自分の歌声、それも意味を持つ言葉を乗せる訳なのだから聞く側としては両方聞きたい。つまりは、どちらも集中して聞きたいのである。しかし、これはあくまで個人的経験だが、人間は恐らく同時に何かをするということが苦手なのかもしれない(これはあくまで個人的経験であるから、あまり真に受けないで欲しい)。
例えば、演奏を全力でやり、尚且つ言葉を全力でやる。そうするとどちらに於いても最高の作品が出来る訳だが、聞く側はそれを同時に聞かねばならない。どれ程の神経を集中させればいいのだろうか。それでは演奏と歌詞を別々にして聞くのか。しかし、演奏や曲調は知らなくても「言葉」は共通言語として知ってしまっているから、そちらに引っ張られてしまうような気がしてならない。曲だけ、演奏だけを聞きたくても「言葉」が少なくとも影響を与えてしまうように思えてならない。
所謂、ヒット曲というのはそこが凄くバランスよく出来ているのではないかなと思うのである。浜田省吾の『MONEY』然り、他の曲も然り。単純明快な言葉で書かれているからこそ、その言葉を看取し尚且つその演奏も同時に愉しめるというバランスの取れたものであると僕は勝手に思っている。というよりも、言ってしまえばこれは僕の個人的好みの問題でもあるのだが、僕が好きになるオールディな邦楽はこういうものが多いみたいだ。
僕は浜田省吾の中だとこの曲が1番好きだ。無論、かなり人気がある曲だ。良い曲はやはり良い曲である。僕が好きな部分を引用しよう。
この曲の最後なのだが、実はこの最終部の「悲しみが雪のように積もる夜に…」と歌い出しがリンクしている。ちなみに歌い出しは「君の肩に悲しみが/雪のように積もる夜には」というものである。僕はこれを聞いた時に綺麗だと思った。最初と最後を同じ単語で締めくくる。しかし、同じ単語でも曲を一通り聞き終った後で再度繰り返されることによってインパクトを持ってその言葉が!眼前に!現れるのである!情景と共に!
ぜひ聞いてみて欲しいところではある。
しかしだ、ここまで書いておいて何だが、僕はそもそも文学畑の人間である訳で、ある種ストレートな言葉よりも難解な、その人のその人にしか表現できない言葉が好きな人間である。吉増剛造や吉岡実、大岡信、田村隆一など、「こいつら何言ってんだ」みたいな詩が好きである。そんな人間が何故これ程までに浜田省吾のストレートな言葉に感銘を受けるのだろうか。
これは僕が思うにだけれども、視覚的な情報というものが前提とされないで作られたが故なのではないかなと思う。ちょっと、ここは今書きながら考えているので丁寧に追っていこう。
詩、先に挙げた吉増剛造や吉岡実、大岡信、田村隆一などの作品というのはそもそも「書かれる」というのが前提にある訳で、つまりは書いた言葉そのままが僕等読み手に視覚情報として入って来る。そこから言葉の解釈であったり、実際に声に出して読んでみて語感の愉しさを看取する。そこでレトリックなどの部分に面白さを感じる。加えて自分のペースで読める、ある種読みという行為に関しては読者に全幅の信頼を置いたうえでそこに存在するのである。
しかし、読むということはそれなりに時間を要する。自分の頭で自分の言語とすり合わせながらその齟齬を愉しむというのがそういう人々の作品である訳で、言葉のみで書かれるとは言え、そこで「書かれる」ということは言葉という文字に置き換えて視覚的な表現もされるが故に優先されるのは視覚的言葉と音が頼りになる訳である。
音楽はどうか。現代の音楽では各種SNSが発達しているので、これはあくまで個人的感想だが、PV前提、つまりは視覚情報優先で作られているような気がしなくもない。あるいは、それに頼っているという現状があるように思われて仕方がない。あとは曲の所謂「ノリ」という奴だ。これも少しばかし例を取ってみよう。
例えばこれなんか最たる例だと思う。PVが前提にある、あるいはアニメの『【推しの子】』が前提にあるからこそ成立する訳である。仮にこれが両者PVとそのアニメが存在せずに曲だけであったらどうだろう。それはそれで良い曲なのかもしれないが(僕は全くそうは思わないが)、歌詞と曲調しか残らない。あとはアーティストの知名度。
しかし、歌詞だけを聞こうと思うと中々難しい。昨今の技術の賜物なのか、所々何を言っているか分からない所があるし、あの短い時間で理解できる程の言葉とは思えない。それは言葉が陳腐だとか、くだらないとかという意味では決してない。ある種、詩人のようなポエティックな内容のゴリゴリに詰め込んだ言葉をあのリズムに乗せて歌われると中々理解に苦しむ。まあ、この曲にそんなものを僕は微塵も感じないが。それだったら、どちらかに全振りして欲しいものであると僕は常々感じるのである。
例えばこんな感じで。
と、ここまでは「現代の」曲の話をしている訳だが、浜田省吾が主に活躍していた時代はどうだろうか。その時代はPVというものが作られる時代であったとは言え、今のようにいつでもどこでもそれを視聴できる環境にはなかった訳である。つまりは、その視覚的な情報がある種ない状況で勝負しなければならないということになる。
つまりはこうだ。「映像なしに、大勢に届けるには?」ということを意識しなければならなくなる(これはあくまで僕の思う所だから、実際にアーティストが「届かせたい」と思っているかどうかは知った所ではない)。本当に伝えたいことを言葉を尽くして歌うとする場合には「曲調(リズム・演奏)」と「歌詞」のみで勝負しなければならないはずなのだ。それを考えると合理的…という言葉が合っているか分からないが、そことの兼ね合いを本気で考えて作られたんじゃないかなと思う。
だからこそ、曲と歌詞が一体化していて、聞いていて気持ちがいいというか「ああ、いい曲だな」と思えるのである。どれだけ言葉を尽くしても、単純な言葉で心動くという所が僕は好きなのかもしれない。詩の場合は言葉で音楽を奏でる。音楽は音で言葉を語る。そう考えてみると、僕が浜田省吾であったり、オールディな曲を好きなのはこういった所にあるのかもしれない。
詩人は「言葉で音楽を奏でる」、歌手は「音楽で言葉を語る」ということであり、今ではその音楽が聴覚が特権的であったものが、視覚がそれにとって代わろうとしているという現状があるように思えて仕方がない。だから僕はその聴覚が特権的な時代の曲が純粋に「音楽で言葉を語る」という営みであったのだと思うと同時に、それが詩と対極的で好きなのである。
はてさて、ここまで書いておいて何だが、音楽と歌詞という所は難しい問題だなと音楽を全く知らない僕でも容易に想像できる。だから、そこに割かししっかり向き合っているヒップホップなんかは僕は好きである。ある種、そういうルール、つまり韻を踏まなければならないとかダブルミーニングとかそういったものを持たせるという所で技術的には素晴らしいと勝手に思っている。
とはいえ、僕は何も今の邦楽シーンが嫌いとかそういったことは決してない。水曜日のカンパネラは好きで聞くし、リーサルウエポンズとかは好きで割かし聞いている。だから、今の邦楽を否定したい気は更々ない。寧ろ凄いと思うまである。何故なら、今までは「曲」と「歌詞」のみに注力していれば良かったのに、視覚的な部分まで気を遣わなければいけないからだ。純粋にそこも込みで曲を作っていると考えたら相当な労力というか、相当な技術がないと難しいだろう。
恐らく、今売れている曲というのはそういう「三位一体」が完成されたものが売れるんじゃないかと思ってみたりする。K-POPも然りである。あれは歌い手のビジュアルに重きが置かれてはいるものの、その中で歌詞と曲も考えねばならないのだから凄いものである。
個人的には、単純に聞き手側あるいは作り手側が何を選択するかに委ねられているということなのかなとは思う。僕は少なくとも本を読む人間だから、ビジュアルというか視覚的な部分と言葉の部分では満足している人間だから、単純な言葉で満足するのかもしれない。
何だか、もう何を書いているか自分でもよく分からないのだが、まあ、結局のところ、「自分が気に入った曲を聞けばいい」ってだけの話。ここまで書いといてね。
ちなみに、最近のお気に入り。
Me2、最近の個人的激アツ。
音楽に無知な男が音楽について語る。
よしなに。
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