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雑感記録(97)

【スーツde東京】


昨日、転職先の面接があったので朝からスーツで東京へ向かった。スーツで東京へ向かうのは本当に久々で、大学の卒業式以来ではないだろうか。細かいことを言うならば、卒業式はリュックを背負って向かった訳だが今回はビジネスバッグだ。サラリーマン感全開だ。自分で言うのも恥ずかしいが…。

あの頃は何というか「僕がスーツを着ている」のではなくて、「スーツが僕を着ている」感じが凄かったように思う。不思議な感覚だと思う。新入社員が入ってくる度に僕はそれを感じる。初々しいなと思う1つの大きな要因としてそこがあるように思われる。

しかし、年を重ねていくごとに徐々にスーツを支配していくというと仰々しい表現になってしまうのだけれども、着こなせるようになってくる訳だ。昨日の僕がスーツを着こなせているかどうかは置いておくとしても、少なくとも大学の頃よりかは成長しているということは信じたい。


そんな訳で、僕は昨日面接時間に間に合うように余裕を持って東京へ行った。面接の時間までかなりあるので、とりあえず大学に向かった。理由は簡単で単純にタバコが吸いたかったからだ。タバコを吸うために大学へ向かうというのも変な話だが、僕にとっては死活問題だ。

Best Place

特急券は新宿駅(山手線内)まで使用できるものだったので、とりあえず新宿で降りて山手線で高田馬場駅まで行き、東西線に乗り換えて1駅。意外と人も少ない感じだったのでスムーズに乗り換えも出来て安心した。駅から歩いて大学へ向かい、喫煙所へ直行。他の物には目もくれず歩く。

しかし、土曜日だというのに学生の姿が殆ど無い。僕が居た時は土曜日も結構スロープを歩いている学生が多かった印象なのだけれども、昨日は殆どいない。だからスーツを着て歩いている僕は一際目立ってしまった。しかも喫煙所にも誰も居ない。まあ、これはこれで嬉しいのだが浮いてしまうのはちょっと恥ずかしいところがある。

黙々と煙を蒸かしたあと、まだまだ時間があることを確認してすぐさま神保町へ向かうこととした。段々と日差しが強くなり、スーツでネクタイをしている僕にとっては暑いことこの上なかった。しかし、スーツを着ているという得も言われぬ優越感?とでも言うのだろうか。そういった気持ちもあり暑さを乗り切ったように思う。


はてさて、いざ神保町に着いたのだが、僕は困ったことに気づく。「そうだ、今日リュックじゃないじゃん!詰め込めないじゃん!」と。九段下駅から歩きながら僕は絶望する。そうか今日はそんなに買えないんだな…と。

昨日はすずらん通りの方で祭りが開かれており、結構混雑するのかなと思っていたのだけれども意外と人が少なかった。僕は澤口書店が好きで必ずそこへ行くのだが、いつも混雑しているのに珍しく店内には2,3人くらいしかいない。これはラッキーと思いながら色々と見て回る。

ラカンの『エクリ』が欲しいなと思って探していたのだが中々見当たらなかった。確かみすず書房から出ていた気がするのだが…。そうすると澤口書店はみすず書房の品揃えが半端ないので、行けばあるかなと思ったのだけれどもなかった。悔しい…。その代りと言ってはちゃんちゃらおかしな話ではあるがバルトを買おうと思い、バルトを購入した。

そういえば最近小説読めてないなと思い返す。何か1冊見繕うかと思って文庫のコーナーへ向かう。ところが、あまり興味を惹かれる作品と言うかタイトルがあまりなくて、うーんと悩んでいた。その時ふと目に入ったのが中沢けいさんの『海を感じる時』だった。

このタイトルを見て僕はすぐさま、坂口安吾を思い出した。僕の大好きな短編『私は海を抱きしめていたい』。このタイトルが頭に浮かび始めた途端に、この中沢けいさんの『海を感じる時』が気になって仕方がなくなってしまった。それにふと、友人が中沢けいさんの小説が良いと言っていたのを思い出し買うことにした。

昨日の戦利品

しかし、スーツで本屋を物色していると何だか本を見ているこちらも凄く変な感じがして堪らない。普段、私服でラフな格好で来ていた神保町なのにフォーマルな格好して来るだなんて…。業者かなんかと思われても嫌だなと思いながら店内をぐるぐるする。

そもそも人の眼なんて気にしなければいいというか、東京なんて人がごっちゃ混ぜになっている場所なのだから、いちいちそんな小さなこと気にしてても始まらない。ただ…ただ!!!ビジネスバッグで何で来たんだ…と後悔の念が僕を襲う。しかし仕方がない。今回の目的は面接なのだ。本を買うことではない。

とりあえず神保町に2時間滞在し、喫煙所でタバコを蒸かして面接会場へ向かう。

澤口書店 喫煙所にて

神保町駅から都営三田線に乗り、三田駅で降りた。本当は三田駅から一駅先のところが会場だったのだが地図で見たら全然歩いて行ける距離だし、時間的にもかなり余裕があるから三田駅から歩いて行くことにした。しかし、東京の街を歩くのは愉しい。

日差しがどんどん強くなり、さすがに暑さに耐えきれなくなり思わずジャケットを脱いだ。ジャケットを手に抱え歩く。何だかより社会人らしいなと感じながら街を歩く。昔では考えられないというか、何だか悲しい気分になってしまったのだ。暑さに耐えきれずコンビニに駆け込み、イートインスペースでアイスコーヒーをすすり時間を潰す。

外を眺めながら人の流れに眼をやる。通行量が多く色々な人がすれ違っていく。僕が住んでいる場所とは違って騒がしいことこの上ない。でも何だかこういう喧噪も良いなと思ったりもする。何というか誰も気にしないという感じ。これは冷たさという表現では間違っているかもしれないが、自身のことに集中している雰囲気が何だかその時の僕には居心地が良かった。

時間になったので面接会場へ向かいおよそ2時間程度の面接をした。


転職活動をしていると僕は面接官の人だったり、転職エージェントの人によく言われるのだが「その学歴だったらどこでも行けるでしょ」と。こういう時に僕は学歴って邪魔だなと感じることがある。

こう未だに根強く「学歴」というものが付き纏ってくるのが僕は何だか凄く嫌だなと常々思う。如何に「学歴」が凄くても人間的にヤバイ奴だっている訳だ。ただ凄く難しいことに、ある程度の「学歴」がある人間は人間的にヤバイ奴率も低い。

とここまで書いて、何だか僕は学歴厨みたいな感じがして凄く嫌なのだが…。ただ1つ言えることは転職活動に於いても、人として接するときにもある種「学歴」という1つのフィルターは未だに根強く我々に浸透してしていて、個々人の能力というか「その人そのもの」にフォーカスを当てるということがなされていないような気がしてならない。

ただ「学歴」というのが1つの指標であるということに僕は異論はない。問題なのはそこで何を学んで、何をして来て、どういったことを学んだのかが重要になってくる訳だ。つまり「学歴」の先にある個々人の磨かれた教養が大事になってくるはずだ。

無論、現在就活あるいは転職活動に於いて「学歴」が重要視されてしまうその状況には僕自身「うーむ…」となってしまうことがある。しかし、採用側からしてみれば、そこで自身の経験から得た教養の度合いを測る1つの指標としてはフィルターを掛けることも選考する上では楽なのかもしれないなとも思ってみたりもする。

僕は正直、「学歴」なんてどうでもいいと思っている人間だ。むしろ余計な「学歴」つけるぐらいだったら働いて経験積んだ方がよりいい気がすると思う人間のうちの1人だ。異論は大いに認める。

僕は純粋に大学へ行って文学、当初は和歌を専門的に勉強したいとずっと思っていたからその大学に進学した訳で、後悔など微塵もない。むしろ行って良かったと思う。それは僕がやりたいことを全力で出来る環境を自ら選んで行ったからであり、これで僕がとやかく文句を言える筋合いなどない。というかこれで文句言ったら後ろから刺されるだろう。

最近は何だか「学歴」欲しさに大学選びをしている人たちが多いらしい。別にそれはそれで構わないと思うが、しかしそれって結局は入学することがゴールになってしまっているような気がしてならない。そういう意味で僕は指定校推薦で良かったと非常に思う。自分の文学に対する熱情を最高潮でキープしながら4年間を全力で過ごせたからだ(何なら年々右肩上がりなんだが…)。燃え尽き症候群という言葉とは無縁の世界で生きてきたからだ。

どの「学歴」を持っていようが、その人はその人である。その人の存在にこそ価値があり、意味がある。無論、話が通じないことだってあるだろう。理解力が乏しくて会話が成り立たないとか、恐らくそういったことも状況としては起こり得る。しかし、それを「やつとは学歴が違うからだ」という理由付けをしてしまうのは浅はかすぎる気がしてならない。その奥底にあるものを感知することが重要であると。「学歴」云々の前に、どんな経験を積み考えたかが大切だ。

「学歴」なんか無くたって考え続け、実際に行動している人は面白い。逆を返せば「学歴」があったって何にも考えてない人は面白くも何ともない。だからこそ僕が読書を怠らないのは、とにかく考え続ける為である。「学歴」を越えた先にある教養を磨くために僕は読み続け、実践する。


何だか偉そうに上から目線で書いてしまった。申し訳なさが僕を襲う。

1度こういう話を友人にした時に言われた言葉が思い出される。
「こういうことを言えるのは、あなたがそれなりの「学歴」を持ってるからであって、私とか口が裂けてもそんなこと言えないからね。」と。
あの時の友人の表情は未だにまざまざと思い出される。それこそ本当に刺される勢いであったと思う。

人はバイアスに左右されすぎる生き物なのだと思う。これは読書をしている人なら分かるのではないかと思う。例えばとある哲学者はAと言っているが、別の哲学者はBと言っている。仮に僕が前者の哲学者のことが好きで「A」であるということを信じて行動したとしよう。その時にこの「A」という考え方が合致しないことがある。そうすると「これは「A」に当てはまらないから無駄なものだ。排除する。」というような思考に無意識になってしまう。

つまり、この作家が1番好きだと言ってしまうことはある意味で政治性を孕んでしまっているのではないかと思う訳なのだ。

それ以外の引っ掛からない作家の作品は必ず(とも限らないかもしれないが…)、その1番好きな作家との比較をしそこが基準になってしまう。1番好きな作家がバイアスとして僕等を支配し基準軸をそこに於いて話をしてしまう。絶対的な存在として自分の中に屹立してしまう。

色んな作家の作品を読んだり、映画だったら見たり、絵画だったら鑑賞したりすることの重要性というのは正しくこういうところにあるのではないだろうかとも思ってみたりする。本来的に芸術というものはそういった世界から離れるための物として存在しているのに、それが政治性を孕んでしまうとはちゃんちゃらおかしな話だ。

芸術を守るためにも、そして自身の深みや重厚さを育むためにも数多くの本を読んだり、映画を見たり、絵画に触れたり…そういったことが求められているように思えて仕方がない。だからこそ、僕は数多くの芸術に触れ続けることを怠りたくないのである。


と、随分話が脱線してしまった訳なのだが、昨日の東京は暑かった。スーツで暑い日に東京へ行くものではないなと改めて感じた。そんな日だった。面接受かってるといいな…。よしなに。

NEXT…






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