見出し画像

(note創作大賞ミステリー小説部門)『敵は、本能寺にあり!』 第三章『天翔ける魔王』

第二十四話『驍勇無双の艦』


 ―1578年―
 雑賀さいか攻めを果たした後も依然として膠着状態にあったが、信長は堺と雑賀の間に佐野砦を築き、(大阪泉佐野)雑賀衆の再挙兵に備えた。

 光秀は丹波領の城を次々と落としていく。
しかし、“裏切り者” 波多野はたの丹波篠山たんばささやま 八上やかみ城を攻めている最中さなかも、信長のめいにより秀吉の援軍に加わるなど、転戦を余儀なくされた。

 また折々、謀反者の処理に駆り出される事も……。摂津せっつの荒木が(兵庫南部・大阪北中部)義昭に寝返った際も対応に当たった。
ただ、光秀の説得を受けた荒木は、信長に謝罪するため安土城へ向かうも、その道中で心変わりし、西国さいこくの毛利のもとへ逃亡。

 のように内部の混乱が相次ぐ信長に対し、「今こそ好機だ」と踏んだ義昭は、毛利の水軍を使い本願寺へ兵糧ひょうろうの搬入を始める。

 己が下した判断が、終わりを呼び寄せるとも知らずに……。

 ◇

此度こたびの海戦での勝利、謹んでお慶びをお讃え申し上げ奉ります」
光秀が安土城を訪れ祝いの言葉を述べると、信長は屈託なく得意げな笑みを浮かべた。

焙烙ほうろく(手榴弾)火矢ひや大安宅おおあたけの前(大型軍船)では全く通用せなんだようじゃ」

 ――事の発端は、天王寺砦の戦いの後までさかのぼる。

 足を負傷しながらも勝利を収めた信長であったが、戦いの直後に毛利水軍が敗者の本願寺へ兵糧の搬入を開始したと知る。
無論、供給を阻止するべく海戦を挑んだが、目も当てられない大敗に終わった。

 是に辛酸を嘗めた信長は、“志摩しま(三重南部)海賊大名”である家臣 九鬼くきに命じ、数多の大砲と鉄の装甲を備えた巨大戦艦 大安宅船おおあたけぶねを七そう建造させた。

 そして毛利水軍が再び茅渟海ちぬのうみへと(大阪湾)やって来るのを、虎視眈々と待ち構えていたのだ――。

 ◇

 雪辱を果たす絶好の機会がやって来た事にほくそ笑む信長は、巨大戦艦七艘を志摩から茅渟海ちぬのうみへ配備させ、本願寺に通じる川の河口部を完全封鎖した。

 片や毛利水軍は、六百せきで襲来――。
得意とする火矢ひや焙烙ほうろく(手榴弾)射程内に陣取ろうと、巨大戦艦に近付き取り囲んだ。

 しかし鉄の装甲を備えた巨船に、大量の炮烙や火矢を浴びせたとて燃えるはずもなく、大砲で一斉射撃された六百の小さな船は、海の上へと木っ端微塵に吹き飛んだのだった……。

 毛利水軍は再起不能の惨敗を喫した。その影響により、顕如けんにょは本願寺を退却――。本願寺が持つ強大な領主権力も、顕如退却と共に完全に失われたのである。

 ◇

安宅船あたけぶね紀伊きいの海を渡る折、雑賀さいかの船団は目の前を過ぎゆく巨船を、ただ唖然と見送っておったと聞きました」と光秀が続けると、信長は微笑んだのち、改まった顔つきで瞳に力を込めた。

「あぁ。――ようやくじゃ。これでようやく西国さいこくに打って出れる。可成よしなりの討死に始まった本願寺との長い戦いが、ついに終わったのう……。
光秀には無礼を致した。頼りにする余り、彼方此方あちらこちらへと呼び寄せ――。其方そなたとこに臥す程に。
伴侶が亡くなったというのに、わしは思い遣る事もせず……悪かった。
面目ない――」
平伏する信長に、光秀は目を白黒させ真面まともな言葉を失う。
頭を上げた信長は、威儀を正して告げた。

「丹波平定の為、大軍を与える。
光秀、一点に集中せよ――!!」

 ◇

 物騒な会話を繰り広げる彼らを気にも留めず、帰蝶きちょうは心を込めて大小様々、色とりどりの紙風船を折り続けていた。
宣教師より贈られたボーロやコンフェイト(金平糖)などの南蛮菓子を、紙風船の中に忍ばせて――。

第二十五話『一閃と陥穽』


 ―1579年―
 丹波篠山たんばささやま八上やかみ城は堅固な城構え且つ、“丹波たんばの赤鬼”の黒井城がそびえる猪ノ口山よりも、標高の高い山城――。

「裏切り者の波多野はたのに調略戦は不向き。強固な山城を落とすには、兵糧ひょうろう攻めが得策であろう」
光秀は軍兵ぐんぴょうに城を包囲させ、糧道を断った。

 兵糧が枯渇した城内で雑草や牛馬の死体を食べ籠城を続けるも、一年が経過すると五百人が餓死――。
城から逃げ出す者の顔は蒼く腫れ上がり、化け物のような姿となっていった。
しかし光秀は毅然とあり続ける。

「退城する者を一人たりとも討ち漏らすな!」と家臣に告げ、生ける屍と化した者を情け容赦無く斬り捨てるのだ。

 山に白や淡紅色の笹百合がたくさん花開き始める頃。
とうとう波多野は降参し、八上城は落城――。
安土城に連行され助命を懇願する城主 波多野に、信長は切腹すら許さず、裏切りの代償として城主の弟ら共々磔刑たっけいに処した。

 そして丹波国領城最後の城となった黒井城であるが、城主 直正なおまさの病死や、支城の落城で兵力は激減。
“丹波の赤鬼”亡き黒井城はたちまち落ち、五年近くに及んだ丹波征討戦に終止符が打たれた――。

 大いに誉め労う信長は、光秀らに破格の恩賞を与える。
光秀は丹波亀山城を改築し入城したが、国替はせず、坂本城には伝五でんごが入った。
利三としみつには黒井城、左馬助さまのすけには福智山ふくちやま城が与えられ、其々の領地を城主として守る事となる。

 ◇

 丹波亀山城を訪れた信長は、桃にかぶり付きながら庭に舞う蛍を眺め、伸び伸びと寛ぎの時を過ごす。
「氾濫が度々起こる河川の治水や、土地の整備までも積極的に行なっておるそうじゃの」
完全攻略を果たした光秀は、いくさで荒廃した丹波の復興に取り掛かっている。

「はい、藤孝や彼の息子の忠興ただおきも力を尽くしてくれております」

「ならば丹後たんご(京都北部)藤孝を置いて良かった」
共に丹波攻めで活躍した藤孝は、丹波国の北部を分国した丹後国を信長より拝領した。

「彼らときちんと検知を行い、千石を一村と定め、一村に一人の名手を、万石に一人の代官を置き、所領を管理しようと」

「うむ、秀吉が驚いておった。代官は古参ではなく土地の者から任用するそうじゃと。年貢以外の雑税を一切賦課しない事にもじゃ。さすが光秀は人心掌握にも配慮を欠かぬな」

 郷里の再生に歩む領民を思い良策をもたらす光秀は、領国の繁栄の為に励む名君と慕われていく。

「ところで忠興ただおきたまは、当代きっての見目麗しい夫婦と謳われておるそうじゃのう。忠興に勧めず、信忠の正室にすれば良かったやも――」

「おたわむれを」
藤孝の息子 忠興ただおきと光秀の娘 たまは、信長の勧めで結婚したのだ。

わしは至って大真面目じゃ。信忠に結婚を勧めても、『正妻はりますので』と言い張るで困っておる……」

「もしや、松姫まつひめ様の事にござりますか」

 十余年前、武田と織田の同盟強化の為、信玄の娘 松姫と信長の息子 信忠の婚約が取り交わされた。
しかし信玄が家康と取り決めた領地境界を越え侵攻した“三方ヶ原の戦い”に於いて、信長は義理を通し家康方に援軍を送った為、武田と織田の同盟は手切れとなり、婚約も解消されたと周囲は認識している。

「そうじゃ。うに破談になったというのに、『それは父上らが決めた事』だと。しかも、『父上と母上は和睦わぼくの条件での政略結婚にもかかわらず、誓約を反故ほごにされても、母上を美濃みのに返されなかったでありましょう』と、わざわざ帰蝶の前で言うのじゃ」

 信長に刃向かうことの無い信忠にしては珍しい――と、光秀は胸の内だけで呟く。
「それはいささか穏やかではありませんな」

「さすが帰蝶に育てられただけあって策士というのか、案の定気を良くした帰蝶は颯々さっさと信忠側に付いた。
帰蝶の網を使い、二人は何やら陰で動いておる。女子おなごが動くと面倒が増えるのじゃが、そんな事は口が裂けても言えんの。此方人等こちとら徳姫が帰って来た所為せいで、頭が痛いというのに……」

 家康と同盟を結んだ際、其の嫡男ちゃくなん 信康のもとへ嫁いだ徳姫は、いさかいが起きる度に岐阜城へ舞い戻る。
今回は信長が居城を移していた為、信忠が挨拶も兼ね岐阜城から安土城まで徳姫を送り届けたのか、押し付けたのか……。

『またにございますか』と言い掛けて、光秀は口をつぐんだ。

此度こたびはいかがなされましたか――」

第二十六話『心の温度』


「……いつもの事じゃ。築山殿つきやまどの(家康正室)信康にいびられては泣きついて帰って来よる。九つで嫁にやったのも良くなかった。それこそ武田の松姫のように、正室預かりの格好を取って手元に置いておく方が賢かったかの」
信長は痛むこめかみ辺りを揉みながら、もう一つ桃に手を出す。

築山殿つきやまどのは“質素倹約の鬼”のようだと、随分前に帰蝶様より聞いた事がございます」と光秀は回顧。

「徳姫が幼い時分に里帰りした折、帰蝶としゃぼん玉で遊んでおったら、迎えに参った築山殿が『里心がつきますので』と酷い剣幕で取り上げてなぁ。
あぁそうじゃ、『かすていらを欲しがり叱られた』と徳姫が言うもんで、帰蝶がこんふぇいと(金平糖)を硝子瓶に入れ、土産の着物の中に忍ばせておいたら、築山殿が着物ごと突き返してきよった事も……。帰蝶は大層嘆いておったわ」

「“こんふぇいと”や“かすていら”などの南蛮菓子は勿論の事、“さぼん(石鹸)”にせよ簡単には手に入りませぬからなぁ。堺を御膝元に置く信長様じゃからこそ高価で珍しい品々を手に出来るのです」
光秀の正論に信長は心からの溜め息をいた。

「幼な子の舌が覚えてしもうたら、どうしようもないのう……。
築山殿は何かある度、帰蝶が甘やかし過ぎたから、わしが贅沢をさせ過ぎたからと徳姫を邪険に扱う。帰蝶も腹を立て彼此かれこれ十年程も不仲が続いておるわ。
まぁ築山殿も嫁を貰ったというより子を貰ったようなもんで厳しくなるんじゃろうが……。
徳姫には質素倹約を強いるが、本人は金使いが荒く贅沢三昧な暮らしをしておるのがせぬ。
近頃は信忠だけでなく徳姫も帰蝶の網を使い動いとるようで、わしは気を揉むばかりじゃ……」

 結婚や同盟の難しさに、ほとほとうんざりする信長へ、更なる火の粉が降り掛からぬよう祈る光秀であったが、嫌な予感は案外早く現実のものとなる――。

 ◇

 目の前に並んで座る帰蝶と徳姫の顔を一見し、信長は悪い話だと悟った。口火を切ったのは帰蝶だ。

築山殿つきやまどのが徳姫に辛く当たられるのは、彼女の伯父である今川 義元 公を、信長様が桶狭間おけはざまにてお討ちになられたからです。
築山殿の御両親は、娘婿である家康様がかたきの信長様と同盟を結ばれた事で、今川方より切腹を言い渡され、お亡くなりになりました。
今川家と生家が破滅に追い込まれ、一族衰亡の姫となった築山殿は、今も御二人を憎しみ恨んでおられ油断なりませぬ。
彼女は勝頼殿の(信玄の後継)息が掛かる医師 減敬げんけいと密通(不倫)、それにより武田と内通しております――。
勝頼殿は、家康様と貴方様を亡きものにし武田が天下を取った暁には、信康様と築山殿に相応の地位を与えると仰り、味方に取り込んでおられるのです」

 帰蝶が間諜網により調べ上げた事実は、耳を疑うものであった。怒りを露わにする信長へ、感情を昂らせた徳姫が畳み掛ける。

「父上、築山殿は 女子おなごしか産めぬ私に『役立たず』と罵声を浴びせ、『男の御子を産むために』と信康に当てた側室は、有ろう事か勝頼殿が家康様暗殺に差し向けた間者でございました――。
その事を話してくれた侍女を信康は私の目の前で『口軽め――!』と罵り、口を裂き、首を掻っ切ったのです……! 私は怖くなり逃げて参り……、もう彼のもとへは帰りとうございません!
信康は元々気性が荒く、踊り子が振りを間違えれば弓の的にし射殺。鷹狩りで獲物がなければ通り掛かった僧の所為せいにし、僧の首を縄にかけ、馬に繋ぎ走らせ、笑いながら殺した事も――。凄まじく狂っているのです!」

 ◇

 事を重く見た信長は、安土まで家康を召致。
心中穏やかでないのは明白であるにもかかわらず、至って冷静に諭す温度がかえって怖さを増幅させる。

わしは何度もお前に頼んだはずじゃ。徳姫を大切にしてくれと……。それがどうじゃ。また信康の狂乱に震え上がり帰って来たではないか――。
お主の正妻 築山殿は武田の医師と密通(不倫)、息子共々揃いも揃って武田に付き、お前の暗殺を企てておるのじゃぞ。――裏切り者はいかがいたす……。
家康の思う通りにすれば良い――」

 自分だけでなく、信長をもほろぼそうとした身内の不始末に、家康は床にり込むほど平伏し切る。

「誠に恥辱の極み――。弁明の余地もございませぬ。二人に問い質した所、少しの齟齬そごあれど、概ね認め深く陳謝して参りました。
息子らの近臣は二人を一切庇う事なく、全て事実だと認めております。
恥晒しの処遇を一任して下さった御配慮に、厚く御礼申し上げ奉り候。信長様の御心みこころに適う様、此の家康、何時如何なる時も信義を貫き、厚く忠義を尽くす所存にございます」

 ◇

 家康と築山殿は桶狭間おけはざまの戦い以降別居状態にあり、彼女はずっと信康と暮らしてきた。だからこそ信康が幽閉された城へ、彼女も向かう。

 其の道すがら、護衛の家臣より自害を迫られた築山殿は、頑なに拒んだ。しかし家臣は、金蘭や銀蘭の花々を愛でる後ろ首をね殺害。
幽閉されていた信康に母の最期が報されると、彼は後を追うように切腹。

 二人の首は安土城の信長の前で、並んだ――。

第二十七話『死を以て一分を立てる』


 ―1582年―
 信忠は二歳になる嫡男 三法師と、側室 寿々すずと共に岐阜城で暮らしていた。
帰蝶きちょうの弟であり、信忠の側近となった 利治としはるが、娘の寿々を側室入りさせたのは、三法師の養母とする為だ。
三法師の生母は公にされていないが、言わずもがな信玄の娘 松姫まつひめである――。

 信忠と松姫は帰蝶の取り計らいにより、信濃しなの(長野)木曾谷きそだににて逢瀬を重ねていた。
しかし両家の対立により、松姫が岐阜城へ輿入れする事は叶わず、信濃の高遠たかとお城で兄 盛信もりのぶの庇護のもと暮らしている。

 ◇

 睦月の凍える早暁そうぎょう、信忠は護衛と共に安土城の信長のもとへ向かった。

木曾谷きそだにの木曾 義昌が、武田家当主 勝頼の課す、新府しんぷ城築城の為の常軌を逸した年貢や賦役の負担に失望し、調略に応じました」

「それは誠か? 義昌の正室は勝頼の異母妹いぼまい 真理まり姫であろう。罠に掛かってはおるまいな」
いぶかしむ信長に、すくむ事なく信忠は続ける。

「家康殿が駿河するが(静岡中部)城を取り戻したいくさにおいて、最後まで援軍を送れず落城を許した勝頼の声誉せいよは地に落ちたと聞きます。
家臣の心はうに離れておるかと」

「であるか。長篠城の攻防戦で対峙した、勝頼信玄の息子の求心力の無さにはわしも驚いた。信玄亡き武田は放っておいても腐り果てると思おたほど。
りとて完膚無きまでに叩きのめしたが、まだ家康に対抗しようと新府しんぷ城を築城……、勝頼はつくづく愚かじゃ。
父親の信玄は『人は石垣 人は城 人は堀 情けは味方 あだは敵なり』と、甲斐かい(山梨)領内に城は建てず、館に居を構えたそう。
『攻撃こそ最大の防御なり』と、人の心を掴み、人を育てる事には金と労をいとわなかったと聞く。この違いには敗戦後も残ってくれた家臣とて、猜疑と不忠の塊であろう」

 ◇

 くして木曾が織田方に付いた事で、武田は防御壁を失ったも同然。
木曾の正室 真理姫は、武田の粛清を恐れて幼子おさなごを連れ逃避。
同母弟妹の居る高遠城にだけは迫り来る敵襲を報せたが、夫への最後の情けとして、異母兄いぼけいであり武田家当主の勝頼には報せなかった。

 真理姫からの報せを受けた高遠城では、盛信もりのぶが松姫に八歳の嫡男と四歳の姫君を託す。

「兄上も共に甲斐へ参りませぬか! この城は真っ先に狙われますゆえ!」
松姫は兄を想い哀願した。
破談になり悲しむ松姫を優しく励ましてくれたのは、真理姫と盛信だった。
松姫と信忠の逢瀬も、彼女が子を宿した時も、ずっと見て見ぬ振りをしてくれていたのだ――。

わしは信玄の息子。落ちぶれても武田の武将じゃ。木曾が離反とあらば、高遠城は対織田の戦線。父が愛した甲斐かいに攻め入られぬよう、この城を守り切る! 松姫、達者に暮らせよ。子らを頼んだぞ――」

 そんな高遠城内の混乱を見た家臣の一人が、新府城の勝頼のもとへ走ってしまった事に、盛信は気付いていなかった……。

 ◇

 松姫が高遠たかとお城から避難して、一ヶ月後――。
信長のめいにより朝廷に働きかけていた光秀から、『武田討伐』の大義名分を正親町おおぎまち天皇勅命として得たとの報せが入る。
「若い軍が出陣する。大将 信忠をよく補佐せよ」と、信長より重臣へお達しが下った。

 軍評定いくさひょうじょうでは、信忠が大将として声を張る。
相模さがみ(神奈川)小田原城より北条氏、浜松城より家康様が、新府しんぷ城を挟撃!
私の軍は岐阜城より美濃みの南部の岩村城を経て、木曾谷と高遠城の二手に別れ先陣する! 父直属の本隊は私の後に続く!」

 黙って聞いていた信長も、最後に皆を鼓舞。
「民こそが宝――! 民の生活を顧みぬ将は断固討伐せねばならぬ! 天下を平らかにするのじゃ!!」

 ◇

 一方、木曾家謀反の報せを受けた勝頼は、人質として預かっていた木曾の身内を処刑し、木曾谷へ討伐軍を派遣。
しかし信忠軍の別働隊が既に到着しており、瞬く間に撃退された。

 かつて勇猛果敢だった武田の家臣は、次々と戦わずして城を捨て寝返り、血縁筋さえも平然と裏切りを働いた為、信忠軍は二手とも易々と高遠城まで辿り着く。
松姫の兄 盛信もりのぶに少なからず恩義を感じている信忠は、城を包囲しながらも“開城と降伏”を何度も要求。
しかし盛信は応じず、遂には使者の鼻と耳を削ぎ落とし返して来た。

 ――松姫の心を想えば、何としても盛信には生きながらえて貰いたい。しかし同じ武士として、彼の覚悟も痛い程分かる。
信忠は迷いの中、信長の言葉を思い出す。
『心と気を働かせて行動すれば、物事は好転する。与えられた役目を全うするだけでなく、自分で模索し創造しなければ、価値ある者にはなれない』

 冬空の下、信忠は心を鬼にし、三千の城兵に対し三万の軍隊で総攻撃を開始。
大激闘の末、血に染まる高遠城が落ちると、盛信は腹を掻き切りはらわたを壁に投げ付け、死に果てたのであった――。

第二十八話『翳る余徳の眩耀』


「こちらへ寝返った武田の家臣は、ことごとく断首せよ! たとえ『先刻、信忠にゆるされた』と申してもじゃ!」
激しく気霜きじもを吐く信長に従い、後陣の信長軍は英姿颯爽と進む。裏切りを繰り返しかねない立場ある者を、迷いなく斬り伏せながら。

 本陣の信忠らは、疾風の如く進撃――。
勝頼が迎え撃つ新府しんぷ城の、目前に迫る。
しかし、木曾谷敗退による布陣の乱れを立て直せぬままの新府城では、信忠の勢いに恐れをなした家臣が相次いで離反。
多大なる労を尽くし、不信を招いてまで起工した未完の城から、城兵らも我先にと逃亡した。

 城を獲られる事は避けられぬとなると、大勢の人質を閉じ込めたまま、勝頼自ら火を放つ。
悔しさを滲ませながらも、一度も抗戦に使われる事なく燃えゆく牙城から、二百人の兵と共に撤退――。

 そして屈指の重臣である大叔父の城へ逃げ場を求めるも、予期せぬ開城拒否と発砲に遭い、ただいたずらに犠牲者を増やした。

「父上、やはり私には荷が重過ぎました――」
勝頼は天を仰ぎ、涙をこらえる。

 彼は生まれながらにして、信玄に翻弄される人生の上にいた――。

 ◇

 甲斐かい(山梨)隣国 信濃しなの(長野)奪取を目論む若かりし信玄は、信濃の領主である諏訪すわ氏の娘を側室に迎え入れる。
そして勝頼が生まれると、彼を覇権争いに利用した。

 信玄の正室は難産の末、お腹の子と共に死去。継室(正式な後妻)には、京の公家の中でも家格の高い三条家の娘が入っていた。

 勝頼が生まれた折、三条のかたは信玄を伴い御祝いへ。そして夫の瞳をじっと見つめ、「諏訪の血には、貴方様の“信”の字は与えてくださるな……」と、透き通った声で乞い、美しく微笑む。
諏訪の方は余りの恐ろしさと冷たさに震えたが、信玄の目からすれば、麗しき三条の方の佇まいは、陽だまりのように温かく穏やかに見えた。

 十余年が経ち、信玄は諏訪家の権力を掌握する為、勝頼を養嗣子ようししに出して元服させ、其の家督を継がせた。
全てが彼の思い通りに動き始めた矢先――。
三条の方との長男が宿敵 今川に付き、父である信玄に謀反を起こしたため廃嫡。
嫡男を失った信玄は、後継者に悩む。

「次男は盲目で出家、三男は夭逝ようせいしておる。他の弟らもまだ小さい。
もし万が一わしの身に何かあれば、家督は勝頼に譲る」と、養嗣子に出した勝頼を指名。

 ゆえに信玄の病死に伴い武田姓に復した勝頼だが、急に当主に担ぎ上げられても上手く立ち回れる訳もなく……。
家臣からは余所者扱いを受け、冷遇された。
正室の子は勿論の事、他の側室 油川あぶらかわ夫人の子 盛信もりのぶらとも、強く結び付く事が出来ない。

 それでも……、長篠の戦いで信長に大敗しても尚、武田家を守るために奮闘してきたのだ。

 ◇

「だが、もう全て終わりだ――」
八方塞がりの勝頼は敗戦を悟り、天目山てんもくざんにある先祖の墓を死に場所として目指す。
しかし武田に反感を抱く領地の農民が、敵方であるはずの信忠軍を案内。不運にも猛追に遭う。

 すると、最後の家臣――わずか四十三名が、血気はやる大軍に立ちはだかった。

「勝頼様の、武士としての名誉を守れ――!!」

「行かせてたまるか!」

「勝頼様、我々が時間を稼ぎます! 急ぎ、天目山へ!!」

 勝頼の為にと家臣らは、狭い崖道を封鎖し信忠軍に奮戦――。
崖下へ転落しそうな足場で、藤蔓ふじづるを掴み片手で刀を振るう。崖から突き落とされた兵の血汐ちしおで、川は赤く染まった。

 彼らの働きにより、勝頼は討ち取られることなく自刃――。
そして主君の自害を心で見届けたのち、四十三名の家臣は、一人残らず戦死を遂げた。

 血と涙にまみれた凄惨な戦場で、若い信忠軍は大いに勝鬨かちどきを上げるのだった――。

第二十九話『末吹き払へ四方の春風』


 ―本能寺の変、三ヶ月前―

 伝五でんご左馬助さまのすけ利三としみつは光秀に呼ばれ、丹波亀山城を訪れていた――。

「見事な枝垂れ梅。大層雅やかですな」
縁側の左馬助さまのすけが満面の笑みで、庭に咲き誇る梅の花を見渡す。

「二条新御所は如何でございましたか」
勘の良い伝五でんごは、二条新御所から戻った光秀が直ぐに皆を集めた事に、何となく不穏な空気を感じ取っていた。

誠仁親王さねひとしんのう殿下は、信長様について『どのような官でも任ぜられる』と仰られた。朝廷からも、武田征伐の戦勝祝賀として征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかに信長様を推任したいと」

「それは良いご報告ができますな」と返す利三としみつに、うなずいたのかかしげたのか判然としない首を戻し、物憂げな表情で続ける。

「ただ……、信長様に報せるべきか決心のつかぬ事も仰られたので、三人に足労願った」

 伝五でんごは主君のただならぬ気配に、すぐさま人払いをし戸を閉め切る。
佳景が視界から遮られた左馬助さまのすけは、梅見のつもりで用意してきた光秀の好物 “葛のちまき”を出す機会を逃した。
しかし次の科白で彼も其れ処では無いと感悟。

「実は、私が謀反の存分を雑談したと噂されておるそうじゃ……」

「謀反などと、そんな馬鹿げた話がありますか! 信長様も必ずや鼻で笑い飛ばしてくれましょうぞ!」
ついつい大声になる利三としみつに、伝五でんごなだめるような目配せをし首を振る。
其の隣で光秀は、一段と深刻さを増した目で利三を見つめ、続く言葉選びに悩んだ。

「そうなればよいが……。殿下は、利三が信長様討伐の談合に参加したとも仰った。無論、私は利三を信じておる」

「何者かの陰謀かと――」
透かさず伝五が傍輩を庇うと、光秀は勿論だというような穏やかな表情を向け、「利三、今私が『信じておる』と言った時どう思おた」と問う。

「有り難き事と思いました」
きっぱりとした答えに光秀は、スッと目を伏せた。
「信長様が同じように申して下さったとしても、私は素直に受け取る事ができぬやもと不安でのう……」

「光秀様のお気持ちも分かります。ですが、義昭様か毛利氏がはかったと、誰もが考えるのではありませぬか」と伝五が心を寄せ、暫く黙考していた左馬助さまのすけも、おもむろちまきを配りながら私見を述べ始める。
「本願寺が失墜し、義昭様の勢力はかげりを見せておりますが、粘着質で執着心も強いあの御方。雑賀さいか衆や毛利氏を使い、まだ何か仕掛けてくる事は十分ありますな」

 是に大きく頷いた利三としみつが、「比叡山の焼き討ちが尾を引いている可能性も。信長様に恨みを抱く者となると、顕如けんにょ殿に晴門はるかど殿、六角に三好など、後を絶ちませぬから」と意見するも、「もう奴らにそれ程の手腕はないであろう」と皆はあっさり否定。

 だが尚も利三としみつは食い下がる。
「例えば、光秀様をおとしめようと噂を流すだけなら誰にでもできるかと。丹波の直正や波多野を慕っていた者が、光秀様に敵意を向けておるやも」

 光秀が低く唸り「噂だけなら良いが、実際に何者かが信長様の御命をねろうておるなら一大事じゃ……」と危惧する姿から、左馬助さまのすけの脳裏に疑わしい男が浮かぶ。

勝家かついえ殿では? 信長様の弟君 信勝のぶかつ様の重臣であられた折、信長様の御命をねろうた過去があるではありませぬか。
傅役もりやくじゃった平手殿が庇い刺さったやじりには、鳥兜トリカブトの毒まで塗り込まれていたと。
勝家殿は信勝様を裏切り暗殺した張本人であるというのに、今でも“勝”の字を使つこうておられるのが、私はどうも……」

「うむ。平手殿を死に追いやったのは別の重臣であるが、勝家殿が加担していたのは周知の事実。信長様は今でも平手殿の死に胸を痛めておられる。我々には分からぬ御二人の溝が無いとも限らぬな」と光秀の賛同を得た左馬助は、身を乗り出して二の矢。
「光秀様の出世に嫉妬されておる勝家殿なら、その名を汚すいわれもあります」

 其処に伝五でんごから、「勝家殿だけでなく、重臣からの嫉妬は途轍とてつもない……。共謀も視野に入れるべきかと……」と進言されると、光秀は溜息混じりにこぼした。

「信長様が皆の前で、『光秀や秀吉の功績に奮起した勝家を、佐久間も見習うべきであったな』と話された事――。此度こたびいさかいに通じておるやも知れぬ……」

第三十話『冴え昇る月に掛かれる浮雲の』


 譜代家臣 佐久間――筆頭家老にまで登り詰めた男の零落れいらくは、家臣団の心に『明日は我が身』との激しい動揺を誘った。

 彼は光秀や秀吉の献身の裏、天王寺砦の城番という立場にありながら本願寺に対しいくさも調略もせず、また信長に報告や相談すらもせず、五年もの時を怠惰に過ごした。
ところが窮地におちいるとすがり付き、信長の蓄積された怒りが爆発。
『苦しい立場になって初めて連絡を寄越し尽力の素振りを見せるのは、はなはだ言い訳がましい』と、数年前に高野山へ追放されたのだった。

 ◇

 光秀の苦しい胸の内を、伝五でんごは静かに受け止める。
「確かに家臣団はあの一件で、譜代ふだいであっても追放かと震えております。嫉妬や共謀が渦巻いておっても奇怪おかしくはないですな」

 其の向かいでは左馬助さまのすけが、折り畳んだ笹の葉を懐にしまいながら回顧。
「佐久間殿の失態続きには信長様も看過しようが無かったのでしょう。やはり発端は三方ヶ原。
佐久間殿の軍は一人の戦死者も出ぬほど早々と撤退。片や、共に援軍に出向いた汎秀ひろひで殿の軍は逃げずに戦い続け、大将首まで取られる激闘を繰り広げた。報せを受けた信長様の憤怒の形相たるや……」と、わざとらしくグッと顔を歪める。
汎秀ひろひでは信長の傅役もりやくだった平手の孫に当たり、信長が特別目を掛けていた。

 是には伝五も、悲哀の表情で頷く。
「あの日……『人を大切に想えぬのが、佐久間あやつが何の働きも出来ぬ要因じゃ――』と蒼白で嘆かれた信長様の心中、察するに余り有ります」

「ですな。やはり与えられた家臣を大切に召し抱えず勝手にいては、配された俸禄をその分溜め込むという欲深き所業が、信長様の逆鱗に触れたんでしょう。浅ましさが際立つ慳貪けんどんを、一番嫌われるはずですから」と利三としみつが推察。

 すると左馬助は、更に苦々しさを増す。
のちの集まりで皆が見ている中、信長様から叱責され立場を失われた佐久間殿は見るも無惨……。『汎秀ひろひでを見殺しにしておいて、平然と戻って来たお前の顔は死んでも忘れぬ』と――あの冷たく言い放たれた顔こそ努努ゆめゆめ忘れられぬと思いますが」などと、人払いしているのを良い事に毒突いた。
利三は呆れるが、伝五は慌てて落とし所を見出す。

「三方ヶ原の直後、朝倉戦でも佐久間殿は落ち度を認めず、席を蹴って立ち上がっては正当性ばかりを叫ばれた。信長様はそれをずっと根に持っておられましたから、最後には勝家殿ばかりか、光秀様や秀吉殿までも引き合いに出し、佐久間殿にとって大いなる屈辱の言葉を、敢えて投げられたのでしょう……」

 しかし又も左馬助は、懲りずに横槍。
「いかん! 秀吉殿という“嫉妬狂い”を忘れてはなりませぬな! 光秀様を『新参者』『両属』とかねてより邪険に――!! 恐らく此度こたびも秀吉殿がはかったのです」
彼にとって秀吉は相当不愉快な相手なのだが、さすがの伝五も虚空を見つめ黙った。

 粛として彼らの談論を見守っていた光秀は、小気味悪く口の端で笑う。
「確かに秀吉殿は野心の塊じゃが、信長様を崇拝しておる。秀吉殿が元凶ならば私をおとしめようとしておるだけで、信長様に危険が及ぶ事は無いのう」

 主君のも言えぬ表情が、左馬助の瞳に悲しく映る。
「我らは貴方様の家臣なのですぞ――。もう少し御自身を大切にして頂きたい……!」
武士としてあるまじき発言と自覚。光秀は信長に仕えているのだから。だが、彼は言わずにはいられなかった。

 静まり返った空間に、伝五が火を灯す。
気付かぬ内に、陽が落ちていたのだ。うしながら彼は、はたと思い付いた事を口にする。
「敵対勢力や家臣ではなく、臣従する北条氏や家康殿という事は考えられませぬか? 家康殿の奥方と嫡男の首が、信長様に届けられたのは数年前の事……」

 光秀は痛む額に手を当て、暫く天井に焦点の合わぬ目を向けた後、険しい顔つきで絞り出す。
「家康殿は一見穏やかに見えるが、心の内には強いこだわりや価値観のある御方。
目標を定めては一心不乱に努力を重ね、達成に導く情熱を秘めておられる。
以前は口論される姿もあったが、最近は上手く交流を重ねる為に、人と合わせる事を意識して振る舞われておるような……。
見返りを求めぬきらいがあるが、決して人に尽くしたい訳ではない。伊賀忍と太い繋がりがあるのも油断できぬ。
恐らく、怒らせると一番厄介じゃ――」

 光秀の話を聞きながらも、じっと何かを考えていた様子の利三としみつから、部屋の空気が凍てつく程の愚見が飛び出す。

女子おなごとは実に執念深い生き物だと思いませぬか? 築山つきやま殿は、御両親を死に追いやった家康殿と信長様を恨み、子や間男まおとこを使って(不倫相手)復讐を果たそうとしておった……。
帰蝶きちょう様とて、御父上を救えなかった信長様と光秀様を、お恨みになっておられぬとも限りませぬぞ――」
苛辣からつな発言に逆上した左馬助は、立ち上がって利三の胸ぐらを掴んだ。

「おのれ! 帰蝶きちょう様を愚弄する気か!! 帰蝶様は御父上が討ち死にされた悲しみの中であっても、そのいくさにより浪人となった我らの事まで考えて下さるような御方――! 越前えちぜんで安住できたのも、手筈を整えて下さった帰蝶様のお陰なのじゃ。
道三どうさん様を殺した愚かな息子 義龍よしたつに付いておったお前には分からぬであろうがのう!」

 伝五でんごは一歩も退かぬ二人を引き剥がしながら諭す。
「暴論が過ぎるぞ。女子おなごはかりごとじゃと申すなら、信玄公の娘 真理姫殿や松姫殿も父や兄弟を討たれておるし、夫 長政殿を討たれた妹君のお市様や、亡き信康の所為せいで心を病まれた姫君 徳姫様まで信長様に因縁がある事になる……」

 しかし利三としみつは、制する伝五の腕を振り払い鼻先で笑う。
「だからなんじゃ? お市様や真理姫殿を疑わぬと? 二人こそ婚家にとっては裏切り者――。無論きちんと間諜の役割を果たされただけじゃが、男にとっては恐ろしい。夫の長政や木曾が、とんだ食わせ者じゃったのも訳合い。松姫殿や徳姫様とて幼気いたいけじゃとは思わん。よもや帰蝶様が“美濃みの道三マムシ”の娘だとお忘れか? 今更ないじゃろうが、吉乃きつの様の事で執念深く恨まれてお……」
帰蝶の名に過剰に反応し、睨みつけてくる左馬助さまのすけに利三は閉口。
ところがそんな左馬助も、お市には別の感情が働く。
「利三殿に同調する気はないが、勝家殿や秀吉殿はお市様に執心しゅうしんじゃから。もしも復讐を目論めば、力を貸す者は多くおるじゃろうの――」
頑是がんぜ無い遣り取りの対角で、冷然と沈思していた光秀の重い口が開いた。

「母とは、子の為なら人をも殺すという――。
養子とはいえ可愛がっていた万福丸を、はりつけにし串刺に処した兄上信長様の事を、お市様はどう思われたか……。そう、私も考えた事が無い訳ではない。
まして御恩ある身でありながら、帰蝶様を疑いたくはないが、幼い頃からどうも危ない道をあえて歩むような危険を孕んでおられるのも事実――。危ない香りに惹かれるというのかのう……。夢中になると脇目も振らず果敢に取り組まれるゆえ、道を踏み外されると怖ろしい。
……鳳蝶あげは様の事で、信長様をお恨みになっておられぬよう願うばかりじゃ――」

 光秀の吐露に、伝五の心は痛む。彼もまた、皆に打ち明けねばならぬ事があるのだ……。

第三十一話『夢幻の蝶』


「実は……」と言い掛けた伝五でんごに、皆は息を呑み待った。先程から明らかに怪訝おかしい彼の様子に、誰もが気付いている。

「……帰蝶きちょう様から頼まれ、松姫まつひめ殿を武蔵国むさしのくに金照庵きんしょうあんへと(八王子)逃がしました。信忠様の側室 寿々すず様への焦りは感じるものの、いくさに於いての恨みなどは露ほども。
ただ……、その、護衛に付いておられるのは、――鳳蝶あげは様にございます」

「何!? 帰蝶様は、その事を御存知なのか……!?」
皆から責められる覚悟をも、様変わりした主君の声音が揺らす。

「それが……。帰蝶様がまだ岐阜城にお住まいの頃から、鳳蝶あげは様はよく庭師の振りをして城に忍び込んでおられたようで――。
安土城へ移られてすぐ、自ら正体を明かされたと……」

「六年も前から――!? 何故なにゆえ黙っておった!」
明らかにたかぶった様子の光秀に、伝五は怯み、平伏――。

「私が帰蝶様より聞かされたのも、つい最近のこと。先の戦の前――松姫殿を逃す折です。
信長様には伝えぬようにと口止めされておりましたが、光秀様へ伝えるなとは申されておりませぬ。しかし、報告すれば光秀様がお二人の間で苦しまれるのではと、迷い……。面目次第もございませぬ」

 ◇

 帰蝶が初めて鳳蝶あげはの気配を感じた、あの日――。
涙雨の中、愛し子の姿を探したが、一目見ることすら叶わなかった。

 紙の蝶に印されていた揚羽蝶紋は、帰蝶が鳳蝶あげはのために丹念に手彫りした物。
信長が帰蝶に初めて贈った“芹葉黄連セリバオウレン”の花が、三輪並んで描かれているのが何よりの証――。

 姿は見せずとも、言葉は交わせずとも――。腕に抱く事など叶わずとも。生きて現れてくれただけで、帰蝶には十分だった。

 折り紙の裏に『お腹いっぱい食べられていますか?』『風邪などひいてはおりませぬか?』としたため、紙風船を丁寧にこしらえる。中には珍しい南蛮菓子を余す事なく詰めて、縁側に並べた。

 次に通り掛かった時、無くなっている事が嬉しかった。
誰かが片付けたのかもしれない。鳥が持って行ったのかもしれない。それでも彼を感じない日々とは、比べものにならない程の幸せ……。

 或る夜。夜毎、夢に見た瞬間とき――。

 小さな灯りで薬学書を読み耽っていた帰蝶は、青白く輝く蝶の大群に包まれる。

「怖がらないでください……帰蝶様」

 背後で、凛と透き通る声――。
いつまでもいつまでも、耳に、脳裏に、焼き付けようと……幾重にも。

 “怖くて震えているのではありませんよ”と発した涙声は、微かな羽音にさえ吸い込まれる。
“母上と呼んではくれませぬか、鳳蝶あげは――”
今度は心で問いかけると、一斉に蝶が舞い上がり、戸の隙間という隙間に張り付いた。

「母上……」

 夢幻の蝶から解き放たれた帰蝶は、智覚の自由を取り戻し、旋風の如く振り返る――。

 謝罪、寂寞、愛念――二人を取り巻く全ての感情を、降り積もり続けた空白を。縹渺ひょうびょうとした言葉で埋められるとは思わない。

 未だ腕に残る赤子の温もりと同じ温かさが、彼女の身体へと返る。其処に乳呑み子の匂いはもう無く、信長と同じ雄々……。
逞しい胸に頬を寄せ、広い背中に腕を回す。

 互いに、ただ抱擁の強さだけで、想いは――。

 ◇

 光秀は何も言わず伝五の肩を掴み、優しく起こした。そしてしっかりと目を見つめ、受け入れたように大きく頷く。
鳳蝶あげは様がずっと、帰蝶様と繋がっておられたのなら……。考えたくもないが、――無い話ではない。鳳蝶あげは様が信長様に捨てられたと思おておっても仕方ないからな」

 伝五がすぐに許された事に納得がいかない左馬助さまのすけは、「伝五殿は鳳蝶あげは様の育ての親のようなもの。長く共に暮らした甲賀こうか忍とも友好関係を結んでおる。まさかとは思うが、共謀してはおらぬであろうの?」と、わざと噛みついた。

「隠し事をしておった私に非がありますが、共に浪人となる前から、長く付き合うてきた左馬助殿から疑われるとは……」

 またも斉藤家の御家争いでどちらについたかや、越前えちぜんでの流浪の日々の話になるのが面倒な利三としみつも負けじと突っ掛かる。
「そう言う左馬助殿も、茶を通じたまつりごとの手腕に長けておるではないか。茶の席で何か良からぬ企みがあったのでは?」

「何を言うか! そもそも利三殿が謀反の談合に参加したと言われておるのじゃぞ!」

「やめぬか! 仲違いは思う壺やも知れぬ……!」
有ろう事か光秀に仲裁させてしまい、彼らは身を縮ませた。

 思い思いに黙り込み、息が詰まるほど険悪になった空気を打破するべく、仕方なく左馬助が口火を切る。
「茶道といえば……藤孝ふじたか殿。彼は剣術・弓術・馬術など武術に優れ、和歌・蹴鞠けまり・囲碁、そして料理にまでひらけておられる。類稀なる才に恵まれとるというのに、不思議と野心は感じられませぬが、あれは真の姿でありましょうか?」

 突然投げ掛けられた際どい問いに、光秀は渋面を作り唸る。
「ん……どうであろう。心奥しんおうに干渉されるのを酷く嫌い、本心を多く語らぬゆえ、正直よく分からんというのが本音。
決して器用ではなく一度に多くをやれば力尽き、自身を責め立てる弱さはあるのう。
感情に惑わされずに厳正な判断を下す所は、怖いと言えば怖いが……」

「彼に危険因子があるとすれば、隣国でくすぶる元明殿。朝倉家から助け出されたものの、若狭わかさ(福井南部)返されず丹羽にわ殿へ。八年待ってようやく与えられたのは大飯おおい(若狭の一部)三千石のみ……彼は信長様を相当恨んでおりますぞ」
利三が眉をひそめると、先程まで言い争っていた左馬助も同意。
思わぬ加勢に調子づいた利三は、「元明殿が伯父の義昭様を頼った可能性は大いにありますな。切れ者の忠興ただおき(藤孝の嫡男)一枚噛んでおるやも……?」と、話を飛躍させる。

「流石に義父であられる光秀様をおとしめるような事は……」
伝五は光秀を気遣うが、左馬助は乗っかる。
「父や子といえ、何が起こるかは分かりませぬ……。信忠様に限っては、忠誠心の塊ですがなぁ」

 光秀は伝五に“大丈夫じゃ”というような眼差しを向け、ちまきの井草を解く。
「うむ。松姫殿の事で少し言い合いになったとは聞いたが……。先の戦では、我々信長様の本隊が武田領に入る前に勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅亡させた信忠様の戦功を、信長様は『天下人の器』と褒め称えられた。信忠様の謀反むほんは絶対に無い」

「“絶対は、絶対にない”のではありませぬか?」と左馬助がじゃれて返すと、光秀は葛餅を頬張りながらようやく笑顔を見せた。

第三十二話『ときは今あめが下知る……』


 流れ始めた和やかな空気をつんざく様に、「口に出すのもはばかられますが――」と、利三としみつが色を正して発する。

「――光秀様に忠告して下さった誠仁さねひと親王、さらには正親町おおぎまち天皇が裏で糸を引いておられる事はないでしょうか。昨年の京都御馬揃えでは(軍事パレード)『天皇への威嚇が過ぎた』と、朝廷がこぼしたなどの噂も。統括されたのは光秀様。もしやと……」
正気の沙汰とは思えぬ彼の発言を、左馬助さまのすけは耳に届くか否か程の声で打ち消す。

「京都御馬揃えを御所望なされたのは陛下御本人ですぞ。大いに喜んでおられたではありませぬか。陛下の権威と信長様の財力は切っても切れぬ強固な関係……。伝統や規範を重んじ、物事を冷静かつ論理的に考え行動される聡明な陛下と殿下が、人を裏切るような事など有り得ませぬ」
左馬助が同意を求めるべく光秀に視線をると、主君は絶望の淵のような顔で唇を噛み締めていた。異様な佇まいに二人も気付き、皆固唾を呑む。

「陛下は人に誠実であられるがゆえ、相手にも等しく誠意を求められる。信長様にそれが欠けていたとしたら……。
実はな、陛下から信長様に譲位の意向が伝えられておったんじゃ。朝廷の衰退や資金難により古来より慣例であった譲位の費用が捻出できず、久しく譲位が行われぬまま天皇が崩御ほうぎょされておる現状。正親町おおぎまち天皇に至っては、即位の際も資金不足で延期となられた過去がおありじゃ。そこで此度こたびは信長様を頼りにされた。一度は受けられた信長様であるが『武田征伐で金銭が不足しておるゆえ、待って頂きたい』と、この間……」

 人の心の奥深くまで潜り込み推し量る伝五でんごは、誰も彼もを想い、流石に沈鬱。れど彼は口から出任せにでも、何とか否定の言葉を探す。
「陛下も流石に機を見ておられるでしょう。民の平穏な暮らしが第一なのですから。これまでも信長様の援助で、皇居の修理、神宮や朝儀の復興も行えた。二条新御所も誠仁さねひと親王へ献上するためにと改修を終えたばかり。誠意を欠いたとは思えませぬ……」

 だが其れも虚しく、利三が一蹴。
「しかし、一度は受けておいて待ってくれというのは、誠意を欠いておると取られても仕方がないですぞ……」

 幾ら談論を続けようとも見えてこぬ敵に、彼らの夜は深く深く更け渡る――。

 ◇

 ―本能寺の変、二ヶ月前―

 光秀の寝顔を眺めながら、信長は煙管キセルくゆらせる。
額に掛かる髪を指先で優しく直すと、光秀の眉がピクリと上がった。何事も無かったかのように外方そっぽを向き、結局気になり視線を戻すと、微睡まどろむ光秀のまなこと交錯する。

「この先何が起きようと、私を信じてくださりますか……」

「無論」
信長が間髪を入れず返した事で、光秀に纏わり付く迷いが消えた。

「実は、何者かの陰謀に巻き込まれたやも知れず……。私が謀反の存分を雑談したという噂。利三としみつが信長様討伐の談合に参加したとも……」

「フッ――馬鹿げた話じゃ。気にしておるのか」
信長は煙管キセルに燃え残った葉をトントンと落としながら笑った。

「噂だけなら良いのですが、万が一、信長様の御命が狙われてはと……。落ちぶれ瓦礫の身の上であった私を取り立て、あまつさえ莫大な軍勢をお預け下さった。信長様には返し尽くせぬ御恩がございます。
恐れながら、お聞き願いたき儀が――。是より暫くの間、黒幕を炙り出すため私と不仲を演じてはくれませぬか」

 ◇

 時が来たりて、丹波亀山城におどろきし叫号きょうごう――。

「敵は、本能寺にあり!」

 紅掛空色べにかけそらいろの下、本能寺――。
揚羽蝶紋があしらわれた黒天鵞絨黒ビロード陣羽織マントをたなびかせ、信長は黒蝶のように独り舞い踊る。
そして華やかな愛刀 “実休光忠じっきゅうみつただ”を眼光鋭く振り上げ、勢いよく――。刃先が首元で止まった。

 何処からともなく現れた蝶の群れに囲まれ、力が抜けた信長の腕から刀が落ちる。そして蝶の壁の向こうに立つ玲瓏れいろうたる青年を、凝視――。

鳳蝶あげは――! これは今際いまわきわの幻か……」
甲賀こうかの術を跳ね除ける程の気魄きはく――。

「父上――、私を……?」
鳳蝶あげははよもや信じられぬといった表情で立ち尽くす。
「見紛う訳がない。その目は帰蝶に瓜二つじゃ。やはり鼻はわしに似ておるのう……」
信長は瞳を潤ませ、一歩、また一歩と、忘れえぬ愛し子に歩み寄る。

「信じて頂けなかった時は、こちらをお見せしようと――」
鳳蝶あげはは懐から手彫りの印を取り出し、信長に差し出した。

「あぁ、この揚羽蝶紋には何度も助けられた。
礼を言う。――――。
鳳蝶あげは……、いつまでも迎えに行けず悪かった……。――わしは。お前を失うのが怖く……、故に……」

「父上――。苦しみ、悶え、嘆き、れど諦めず、世の為、民の為と試練に立ち向かう父上を、私は遠くからずっと見て参りました。決して、私は父上に謬見びゅうけんを抱いたりはしておりませぬ。寂しくとも……この三輪の花のように、いつも夢幻の世では、父上と母上がそばにいてくださいましたから」
鳳蝶あげはは純粋無垢な目で、信長に微笑みかける。其の瞳が余りに眩し過ぎて、信長は愛を込め彫られた“芹葉黄連セリバオウレン”の花に視線を落とす。

鳳蝶あげは、この花の名を知っておるか?」

「はい、母上から……」

「帰蝶から――? 成る程、帰蝶の網は鳳蝶あげはであったか」
言葉少なに信長は全てを悟った。

「母上に頼まれ、助けに参りました。此処もじきに火の手が――」

「有り難き幸せじゃ……。しかし、わしは役目を果たさねばならぬ!」
信長は顔つきを変え、刀を拾い上げる。しかし鳳蝶あげはは信長の腕を掴み、力強く引っ張った。

「光秀様がお待ちです。『最後にもう一度、此の光秀を信じて下さいませ』と」

「光秀が……。ならば、是非に及ばず――」

↓続きはこちらで公開中です↓

この記事が参加している募集

眠れない夜に

まだまだ未熟な私ですが、これからも精進します🍀サポート頂けると嬉しいです🦋宜しくお願いします🌈