「ゆるやかにつながる」ということ
社会人になって約2年、
「ゆるやかにつながる」
というのが私の中で1つのテーマになりつつあります。
私自身、社交性がないわけではないし、むしろ新しい価値観と向き合える機会が多いほうが人生豊かになると感じている一方、
あまりにも距離が近いと、条件反射的に身を引いてしまう癖がある人間です。
でも、それってきっと私のパーソナルアイデンティティではなくて、不特定多数の人が感じることなのではないか、と思うのです。
たとえば、私は農業関係のPRのお仕事をしているのだけど、
今まで、農業の「のの字」も知らなかった人間が、農家さんとつながり、お話を聞くわけです。
もちろん、私も業務でなかなか現地へ足は運べないし、農家さんも忙しい。
会う機会は年に1回あるかないか、下手をすれば電話だけのコミュニケーションで完結する場合もあります。
だけど、一度顔をあわせていることで、見えてくることや感じることが、この2年弱でガラッと変わりました。
大雨などの災害があれば、
「あそこの農家さんの畑、無事かなあ」
スーパーで野菜が値上がりしていれば、
「きっと、不作のなか必死に売り出してくれてるんだな」
これまでの日常では考えもしなかったところにまで思いが巡るようになります。
職場で案を練るときも、
あの人ならどんなサービスを欲しがるかな
なにか面白い取組を知った時は、
あの人、こんなことしてみたいって言ってたから教えてあげよう
なんて、考えられるようになります。
そうすると、農家さんから
「あのときこんなアドバイスをもらえて助かったよ、ありがとう!」
なんて、お声がけいただけることが何度かありました。
ど素人が、農のプロ相手に感謝してもらえる。
それも、数回しか会ったことのない小娘に。
何かあったときに、その人の顔が浮かぶということは、それだけゆるくつながりが持てている証拠なのだなぁと感じるのです。
これが、近すぎてもしんどくなるし、全く関わらないといつまでも交わらない。
「ゆるく」というのがミソで、これは私の仕事に限らず、地域やコミュニティでのつながりにも言えることだと思います。
人と交わることはエネルギーが必要なので、関わらなければ楽だけど、
世界は自分1人で完結してしまうし、いざというときの孤独感に、人は耐えられない。
それでいうと、全国的に増えている、子どもを中心としたコミュニティ「子ども食堂」は、「ゆるやかにつながる」をコンセプトにされている素敵な取組だなぁと最近思いました。
誰でも来れて、みんなでご飯を味わう。食卓を囲む。次回は、来ても来なくてもいいよ。
ゆるいからこそ、なんとなく顔は覚えていて、
ある日顔色が悪ければ、その異変に気付ける人がいる。
災害が起こったときには、「あの子(人)が避難できていない」と気付くことができる。
普段から、ご近所さんと濃いお付き合いをと言われるとハードルが高くても、ゆるく、楽しくつながれたら、それはそれで正しい付き合い方になるんじゃないでしょうか。
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