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セカイイチへ、愛を込めて。

日曜日の午後10時。こんな時間に新幹線に乗るのはいつぶりだろう。
背中や足に鈍い痛みを抱えながら。
今のこの感情を忘れたくないという思いと、名古屋で乗り過ごして京都まで行ってしまってはいけないので、こうしてnoteに気持ちを書き残しておこうと思う。

感情をさらけ出すことはあまり得意ではないから、文章にしたら取り繕ってしまうかもしれない。
でもなるべくこの気持ちの温度を残すために人目を気にせず、荒削りなままでもごく素直な気持ちで書きたいと思う。

ごく個人的な思い入れではあるけれど、音楽にずっと救われてきた、という話を書き記しておきたい。

今日、セカイイチの活動休止前の最後のライブが終わった。
セカイイチというのは、今年で活動20年になるバンドだ。
メンバーは全員40代になった。出会った頃は最年少のボーカル・岩崎慧さんがまだ27歳くらい。いつの間にかあの頃の彼らの年齢を追い越してしまった。

彼らを知ったのは2010年の3月。大学2年が終わる頃だった。
時代はスマホが世の中に普及する前夜。駅前のTSUTAYAのレンタルでCDを借りていた。
たまたまジャケ借りした「art in the EartH」というアルバムがセカイイチとの出会いだった。

その頃は友達とたまにFoZZtoneやシュノーケルや椿屋四重奏やサクラメリーメンなどのライブを観にいっていた。
大須のell.FITS ALLとか新栄のアポロシアターとかパルコのクアトロとか、今池のFUCK  FINNあたりによく行っていたと思う。

2010年の4月、セカイイチの自主イベント「光風動春」でFoZZtoneと2マンライブをやるというので池下のUPSETに行った。それが全ての始まりだった。

正直なところ、ライブを見るまではそこまでのめり込んでハマっていたというほどではなかった。
でも、ライブを見たとき、ボーカルの慧さんの歌を聴いたとき、ずっとこのバンドのライブを見続けていたい、と強烈に感じていた。

細かいことは覚えていない。けれど、楽しみ方も、聴き方も、踊り方だってなんでも自由でいいんだ!と知らず知らず人目を気にしてしまう呪縛を解いてくれたのがセカイイチだった。

セカイイチは「光風動春」という自主企画対バンイベントや、「真昼の月」という名曲カバーを織り交ぜた昼ライブ、いつからか年末恒例となったワンマンツアーの「暮れの元気なご挨拶」、ベースの泉健太郎さんが脱退したあとにスタートした「サポートベーシスト感謝祭」などなど、たくさんの楽しい企画をしてくれた。

おかげで、一人ででも行きたければライブに行くようになったし、東京や大阪にも何度も行った。
いつしか昼間に美術館と本屋とコーヒー屋に行き、ライブを見て、夜行バスで帰るルーティンができあがった。

そうやって、どんどん好きなものを降り積もらせるように、増やしていくことができた。
だから、音楽以外でも世界を広げて、いまのわたしを作ってくれたものは紛れもなく彼らなのだ。

ライブに行けば、いつだって理性を解放することができる。
感情をむき出しにすることをどこかで怖れていたのに、自分の喜怒哀楽にもちゃんと色がついていることを思い出す。

ただ目の前の音と光景にのめり込んで、思い切り腕を上げて、飛んで、踊って、ズタボロになって、しばらく耳にシュワシュワとした余韻が残る。 
疲れ果てれば疲れ果てるほど、最高な時間だったなと思う。
昨日の失敗も、明日からの不安もその時間だけは忘れて、目の前のことに全てを賭けていられたから。

20代〜30代前半の全てをセカイイチの音楽と共に過ごしたと言っても過言ではない。
その間、歌モノロックバンドからソウル、ファンクへと方向性はかなり変化したけど、変わっていく彼らがまた、とんでもなくかっこよかった。

バンドマン(2012年)

Where we are(2023年)

今よりずっと自己肯定感の低かった頃も、恋が終わったときも、大好きだった仕事を辞めなければならなくなったときも、好きなものを好きだと言うのが怖くなっていたときも、そうした時期を乗り越えられたのは間違いなく、セカイイチのおかげだ。

「素晴らしい世界」の『君が望むもの欲しがっていいんだよ』と言う歌詞を聴くたびに、やりたいことを諦めて、好きなものに蓋をしていた頃を思い出す。
上手く息が吸えないときも、お守りみたいに、ずっと握りしめてきたアンセムだ。

あれから好きなものを好きだと言えるようになって、好きな人や物がたくさん増えて、楽しい記憶もたくさん作って、13年の時間が流れた。
いまは好きな人たちが周りにいて、やりたいことを応援してくれる家族がいて、ずっと息が吸いやすくなった。

欲しがることは決して悪いことではないと、セカイイチが背中を押してくれたから。
この世界はそうそう悪いところじゃないよ、と宝物のような時間をたくさんくれたから。
そして、この世の中のどこかに彼らがいて、また当たり前に会えるであろう、と希望を持ち続けることができたから。

今日、セカイイチは20年の活動を一旦止めるけれど、会えなくても、どこかで元気にしていてくれたら、またいつか会えるような気もしている。

そんな不確かな希望だけでも、全然大丈夫ともう思える。
こんな風に大好きになれるバンドには当分出会えそうもないけれど。

活動を止めるのは正直さみしい。
でも、最後に最高傑作だと胸を張って言える作品を出して、最高のプレイでリリースパーティーツアーをして、一緒に音を出すのがうれしくて仕方がないという顔で演奏して、やりきった!という思いで区切りをつけてくれるバンド、そうそうないんじゃないかと思う。

これからもずっと今日のことを忘れたくないなと思うけど、もうこうして言葉にしてしまった瞬間からどんどんこぼれるようにして何かが損なわれてしまう。

でもそれを「エモい」という言葉だけで片付けたくはない。
眠ってしまったらまたいつもの明日が始まる。きっと忘れていってしまうのだろうけど、いつでもこの気持ちを振り返って思い出せるようにしておきたい。

最高の青春と素晴らしい音楽をありがとう。
セカイイチがこれからもずっと大好きです。


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