見出し画像

大正浪漫にハマる

関東大震災と大正浪漫

最近、YOASOBIさんの「大正浪漫」という楽曲にハマってます。わたしがなぜYOASOBIさんを聴いてるかという細かい情報は割愛しまして、この曲を繰り返し聴いてるうちに小説が読んでみたくなり読ませていただきました。
切ないラブストーリー(小説内ではロマンスという表現)に涙しました。大正時代は、日本の歴史において、大正天皇の在位期間にちなんで名付けられた時代でした。大正時代は、1912年7月30日に大正天皇が即位し、1926年12月25日に大正天皇が崩御するまでの期間、約14年半にわたりました。

大正時代の時代背景は、日本が近代化と西洋化を進め、国内外で大きな変革が起きた時代です。政治的には、議会政治の始まりや普通選挙の導入など、民主主義の基盤が築かれましたが、同時に政治的混乱や社会不安もありました。経済的には、第一次世界大戦後の恐慌や農村の貧困化が問題となりました。文化的には、芸術や文学などの表現が多様化し、新たな思想や文化運動が興りました。

今年は関東大震災から101年目になります。
ここで、詳しく調べてみました。

関東大震災は、1923年9月1日に発生した日本で最も被害の大きかった地震の一つです。関東地方を中心に、東京や横浜を含む広範囲で甚大な被害をもたらしました。

この地震は、午後11時58分に発生し、約4分間続きました。マグニチュードは約7.9と推定されており、震源地は東京湾の南部でした。地震による揺れだけでなく、火災も大きな被害をもたらしました。当時の建物は木造や脆弱な構造が多かったため、火災が急速に広がり、町や都市の大部分が焼失しました。

関東大震災の犠牲者数は推定で10万人以上に達し、多くの家族やコミュニティが崩壊しました。この地震は日本の都市計画や建築基準の見直しを促し、災害対策や建築の安全性向上に寄与する契機となりました。

千代子と母親が台所にいるときに地震が来たようで、「強い揺れは収まる気配がない」と書いてあるとおり、調べでは4分間も続いたようです。そのあとに母親を家に残して近くの公園に弟たちと避難しています。火災旋風が激しかったようです。
近くにあった枝垂れ桜は、おそらく…代々木公園内にある「ヨネザクラ」のようです。近くの公園とは代々木公園のことでしょう。この桜は、江戸時代の初期に植えられたとされており、その美しい枝垂れる桜の花は毎年多くの人々を魅了しています。代々木公園は東京都渋谷区に位置し、都心にありながら自然豊かな空間を提供しています。春になると、ヨネザクラをはじめとする桜が満開になり、多くの人々が花見を楽しむ場所として知られています。

時翔と千代子が待ち合わせしようとしていた凌雲閣は震災で半壊してしまい取り壊されたようです。
日本で初めて取り入れられたエレベーターがあった。建物の8階部分から上部が折れる形で倒壊した。地震発生当時、頂上展望台付近には12 - 13名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
大阪にも凌雲閣があったようです。詳しくは、明治22(1889)年に建てられた、木造九階建・高さ130尺(約39メートル)の建物です。当時この場所には、茶店や温泉、弓場、自転車競走場、ボート池などが配された3,900坪もの公園「有楽園」があり、凌雲閣はそのシンボルとして親しまれました。一階と二階は五角形、そして三階から八階は八角形をしており、らせん状に通路が巡らされていたといいます。最上階の九階部分には展望台や時計台があり、ここに登れば、大阪市中を一望することができました。いつ頃まで建物が残っていたのかは、はっきりとはわかっていませんが、昭和初期には撤去されていたようです。


震災後の凌雲閣

関東大震災の津波

見過ごされがちですが、関東大震災は震源域が相模湾内であったことから、伊豆半島、伊豆大島、三浦半島、房総半島の海岸には津波が押し寄せています。 津波の高さは伊豆大島や静岡県熱海市で最大12m、千葉県の現館山市で9mに達し(内閣府資料)、早いところでは地震後わずか5分で来襲したとされています。12メートルはマンションの4階建を想像してもらえればよいと思います。今回の能登半島地震でも津波や揺れにより昔ながらの家屋の崩壊が多数見られて、朝一の準備をされていた場所も火災により全焼してしまったのは記憶に新しいと思います。地震のときに気をつけるべきは、火災旋風と津波が早く到達するということです。

記録に残る最大級の津波の高さ

リツヤ湾大津波(リツヤわんおおつなみ)とは、1958年7月9日、アメリカ合衆国アラスカ州のリツヤ湾(Lituya Bay)で発生した津波である。 フィヨルドであるリツヤ湾の斜面が地震によって崩落し、海中になだれ込んだ土砂や氷塊で大波が発生した。 波高はその対岸で524メートルに達し、これは観測史上最高とされる。1958年7月9日、現地でM7.7の地震が発生し、湾の奥で大規模な山体崩落が起こった。それによって海中になだれ込んだ大量の土砂や氷塊により、湾内で巨大な水しぶきが発生、沿岸は高さ500m以上に及ぶ津波に見舞われた。波によって押し倒された樹木の痕跡から推量した波の高さは524mに及び、それはエンパイア・ステート・ビルディングより143m高い、観測史上最高の高さである。

鬼滅の刃 

大正浪漫を読ませていただく以前に、鬼滅の刃をすべて読ませていただき、22巻あたりから涙腺崩壊しながら読んでいたので、同じ時代背景なので、軽く鬼滅の刃のことも記事にしました。情報が繰り返しになると思いますがご了承ください。
漫画『鬼滅の刃』の舞台は大正時代の日本です。物語は、大正時代前期の第一次世界大戦中の時期を描いています。

大正時代は明治と昭和という激動の時代の間に挟まれた14年半の時代で、日本近代史において重要な側面を多く持つ時代でした。当時は第一次世界大戦中で、日本は大戦景気でしたが、お金を持っていない人はそれほど得をしませんでした。大正7(1918)年に米騒動が起きるなど、格差が拡大していく時期でもありました。
物語は、山奥に住む少年・竈門炭治郎が家に戻ると、母親と弟妹たちが鬼により惨殺され、生き残った妹・竈門禰豆子も鬼へと変貌したことから始まります。主人公の炭治郎は、鬼と化した妹を人間に戻すために鬼たちと戦う姿を描かれています。

物語のスタートは大正時代のはじめとされることから、公式ファンブックにある主要キャラクターの年齢(最年少の14歳〜最年長27歳)から逆算すると、鬼殺隊の隊員は明治20年代から30年代生まれと推定できる。 実はこの時期は、東京においてストリートチルドレン(孤児のホームレス)が社会問題化した時代でもあった。

ハイカラさんが通る

わたしは読んだことはありませんが、大正時代を舞台にした漫画の先駆け的なラブストーリー。今でも舞台化されるなど、昭和の文化に欠かせない作品のひとつだと言える。そしてエンタメとして読み継がれるごとに、「大正12年に起きた関東大震災」の存在を知らしめてきた。
『はいからさんが通る』6巻と7巻にて描かれているのが「関東大震災」

『はいからさんが通る』の時代背景は大正時代。ヒロイン花村紅緒は、幼い時に母を亡くした女学生。陸軍少尉の父のもと、剣道が得意で自転車を乗り回す「ハイカラ」なお転婆に育った。良妻賢母を育てる女学校でもお裁縫は大の苦手。陸軍少尉・伊集院忍が祖父母の代から決められた婚約者だと告げられると、勝手に決められた縁談に反発する。

1912年から1926年と大正時代はわずか14年あまりだが、大正デモクラシーによって婦人参政権をはじめとしたさまざまな制度が前に進んだ時代だった。大和さん(作者さま)は自身の母親が普通に働いていたこともあり、ごく自然に自分の意思で働く女性たちを描いた、ということをかつて作者さまがインタビューでも語っていたが、1975年当時、「女性は結婚して家庭に入り、子どもを産むもの」とされていた。『はいからさんが通る』は新しい価値観を多くの人に気づきとしても与えたエンタメともいえる。

大正デモクラシー

大正デモクラシーとは、1910年代から1920年代(大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称です。大衆が自由を求める傾向が強まり、様々な政治運動、社会運動、労働運動などの大衆運動が盛り上がりを見せました。

令和の現在、私たちが大正時代に興味があるのは今の時代背景と重なるからではないでしょうか。大正時代を生きてきた人と令和に生きる私たちはどこか共通するものがあるような気がします。政治腐敗が囁かれている今と大正時代の時代背景がどこか似ているような気がしてなりません。

※記事はすべて、ネットより調べてきたものをまとめています。


https://amzn.to/3IwvBVO

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?