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お腹を痛めなくても母親です

「痛くないですか?」
通訳のジェンさんが私の部屋を尋ねてきた。ジェンさんはこの産院で日本語通訳を担当していて、私は妊婦健診の時から彼女にお世話になっていた。
台湾は日本人の在住者や観光者が多いからか、日本語で診察が受けられる病院がいくつかある。およそ半年ほど前、妊娠4ヶ月そこそこで渡台してきた時は「ニーハオ」と「シェシェ」くらいしか知らなかったので、日本語で受診できる産院があるというのは非常にありがたかった。
臨月になる前に日本へ帰国して出産するという選択肢もあったけれど、ジェンさんのお陰もあって台湾の産院で不自由していなかったし、無痛分娩が日本よりも浸透していることが何よりの決め手だった。
4年前に日本で上の子を出産した直後から「ああ、次があるなら無痛分娩にしよう…」と思っていたのだ。費用も日本より安い。

ジェンさんがLDR室に来てくれたこの時、腰からお尻にかけて鈍い痛みが数分おきに寄せては返しを繰り返しているところだった。痛いけれど、上の子のお産の時を思い出すと、まだまだ序盤といったところ。そう思った私は
「まだ我慢できるくらいの痛さです。」
と答えた。
これは別に強がったわけではなくて、「子宮口がそれなりに開いていないと硬膜外麻酔はしてもらえない」とか「あまり早く麻酔すると途中で切れる」とか…そんな体験談を友人やネットの情報を見聞きしていたから、これくらいは耐えないといけないものだと思っていたのだ。
「ええっ」
いつもにこにこしているジェンさんが私の答えを聞いて急に怪訝そうな顔になった。
「そんなちょっとでも我慢するくらい痛いなら言ってくださいよ。麻酔入れます。」
「えっ、もういいんですか?」
むしろ私が面食らった。
「もうカテーテル入れてるんだから、もちろんですよ。担当者呼んできますね。」
ジェンさんはそそくさと部屋を出ていき、すぐに麻酔の注射器を持った助産師を連れて戻ってきた。助産師は麻酔について簡単な説明をした後に、カテーテルに注射器1本分の麻酔を手早く入れた。
「この後も痛くなったら遠慮なく言ってくださいね。いきむ力を残す範囲であれば、また麻酔できますよ。」
「えっ、追加もいいんですか。」
ジェンさんの言葉に私はまたまた面食らった。無痛分娩の麻酔は1回しかできないものだと思っていた。だからこそ早すぎたらあの壮絶なクライマックスまでに切れてしまうと思って、この時の陣痛を我慢していたというのに。
「そうですよ!」
ジェンさんは何をわけのわからないことを言っているの?と言わんばかりに目を丸くしていた。
「痛みのないリラックスしたお産をしてもらうのがこの病院のポリシーなんです。ここは日本じゃないんだから我慢しなくていいんですよ。」
この時のジェンさんの口調には珍しく力がこもっていて少し説教っぽさを含んでいるようにも聞こえた。

「日本じゃないんだから」のせいだろうか。このジェンさんの言葉は今でも心にはっきり残っている。

多くの台湾人が持っているイメージなのか、日本に知り合いが多いジェンさんだからこそのイメージなのか。いずれにせよ「日本では我慢が美徳」とか「楽をするのが許されない」とかそんな風な印象があるのかなぁ、とぼんやり思った。
実際のところ、私が我慢していたのは、この産院では麻酔を追加できることを知らなかったのと、前回の出産経験のせいでその後の痛みの変遷を知っていたから、大事な1本をもう少し後までとっておこうと思っていたからである。けして「痛いなんて言えない」と耐えていたわけではない。

そう思っていたけれど、実際に痛みから解放されてみると、楽になることへの後ろめたさを自分が感じていることに気づいた。
麻酔が効いてくると腰から下がじんわりと温かくなる感覚があった。冷えた体で湯船に浸かった時のような、そんな心地の良さだった。子宮が収縮する感触は相変わらず一定の時間でやってくるのに、それに伴う痛みは全く感じない。この体験は新鮮で、快適だった。
それなのに時々、罪悪感のような焦りのような感情が湧いてくる。「こんなに楽していいのかな」「なんだか自分は努力していない気がする」といった具合に。
無痛分娩に対する根性論的な批判、例えば「お腹を痛めてこそ母親だ」というような意見はバカバカしいと常日頃思っていた。なのに、自分の中にも実は「痛みを感じないこと」に対する負い目があることに気がついた。
思えば私は常日頃、例えば仕事や育児において、自らノルマを設定してはわざわざ苦しんでなんとか達成感を得ているところがあるような気がしてきた。無駄な自己満足の我慢とでも言おうか。
私のこの習性と日本と、関係があるのかないのかは正直わからない。けれど「日本じゃないんだから」と言われていなければ、ジェンさんの言葉は心に残らなかったわけで、今回も自分の中の根性論を見過ごしていただろうと思う。

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