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私は不憫じゃありません

麻酔のお陰で陣痛から解放されてからは快適に過ごしていた。
2回目の出産だから早く終わるだろうと期待していたのに、お腹の中の子はのんびりとしていて生まれる気配がなかなかなかった。そのため促進剤としてオキシトシンを点滴することになった。

この日は平日で、3歳の息子はいつも通り幼稚園に行っていた。夫は仕事を休んで朝から私と一緒にいてくれたのだが、息子のことを考えるとずっと立会いをしているわけにもいかなかった。
異国にいては自分たちの親に頼るわけにもいかず、この日の息子の面倒(幼稚園のお迎え、夕飯、お風呂、寝かしつけ…)は全て夫が見る必要があったからだ。
できれば夫が立ち会っていられる時間帯に出産が終われば良かったのだけれど、あっという間に幼稚園が終わる時間になってしまい、結局私一人がLDR室でぼんやりと待機することとなった。

促進剤を点滴した後、助産師の見回りが頻繁になった。ある助産師(名前がわからないのでAさんとする)は部屋に入るやいなや私が一人なのに気がついて
「旦那さんは!?」
と聞いてきた。帰った旨を伝えると、ものすごく不憫そうな顔をされた。
ジェンさんも頻繁に様子を見に来てくれて、やはり同じように夫がいないことに気がづくと
「えー、帰ってしまったんですか。」
とやはり不憫そうな顔をした。

台湾では夫が立会いしないことがそんなにかわいそうなことなのだろうか。Aさんに至っては、私の様子を見終わって一度部屋を出たのに、すぐにまた戻ってきて「日本語の番組もあるよ」と言ってテレビをつけてくれたほど気を遣ってくれた。
台湾には日本の過去番組を再放送するチャンネルがあるのだが、日本で人気の番組がやっているわけではないから退屈なことが多い。この日も残念ながら特に面白くもない番組がやっていて、ますますぼんやりとするしかなかった。

事態が動いたのは突然だった。ベッドを起こした状態で座りながら何をするでもなくぼんやりしていると、ぐぐぐ…とお尻のあたりから押されるような感じがした。気のせいかな、と思ったが、やはり押されている。そして今までの麻酔が嘘だったかのような桁違いの痛みがじわじわと襲ってきた。身に覚えのある痛みだった。
これはナースコールをせねばと思っていた矢先、本当にタイミングよくAさんがやってきた。私は「と…痛(トン)…っ!!」と彼女に伝えるのが精一杯だった。それを聞いた彼女は急いで私の子宮口を確認すると「ポースェイラ!」と言って部屋を出て行った。

ポースェイラ…なんだろう…。
痛みに耐えながら、聞いた音にあてはまる漢字を必死に脳内検索し、
ポーは破、
スェイは水、
ラは了、
つまり「破水したんだ!」ということを理解した。

Aさんはすぐに医療器具を載せたワゴンのようなものを押しながら戻ってきた。もう一人別の助産師も後に続いて部屋に入ってきた。私が陣痛待機に使っていた部屋はLDR室なので、このまま自分は移動せずとも出産態勢に入ることができるのだ。(※LDRとはLabor陣痛、Delivery出産、Recovery回復の頭文字)

「痛いね、わかる、わかる。もう何も言わなくて大丈夫!」
部屋に戻ってきたAさんはおそらくそんなことを中国語で言って、注射器2本分の麻酔を追加してくれた。そして今まで私が横たわっていたベッドをあれよあれよと分娩台に変形させていく。視線を自分の足元にやるともう一人の助産師も着々と何かを準備しているのが見えた。いよいよだという緊迫ムードが漂う中、ジェンさんもやってきて
「いよいよですね!先生がもうすぐきますからね。」
と声をかけてくれた。

そんな時、誰が言い出したかは忘れたが「旦那さんを呼んだ方がいいんじゃないか」という話になった。
「いや、夫は長男を見てるので、来られないと思います。」
そう言いながら時計に目をやるといつもなら息子がお風呂に入っているくらいの時間だった。
むしろ夫には長男の世話に専念してほしいので、夫がこの場にいなくても私としては何の問題もなかった。
「そうですか」と言われるかと思ったが、
「息子さんも一緒に来られるかもしれないし、連絡した方がいいですよ。」
「そうそう。」
とジェンさんも助産師の二人も食い下がった。
「…と、と、とりあえず連絡はしてみます…。」
私はすっかり圧倒されてとりあえず「そろそろ生まれそう」とだけ夫にLINEした。

後日、台湾人の女性に聞いたら「台湾では夫が立会いするのは当たり前」という感覚なのだと聞いた。もちろん日本でも夫が立会うケースは多いけれども、話を聞く限り「例外は許さない」くらいの強さを感じた。だからすごく不憫そうな顔をされたし、なんとかして立ち合わせようとしたのかなあ、と後から思った。
台湾の人たちは本当に親切でいつも助けてくれるけれど、その親切の勢いが本当に強い。

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